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生命主義、生命論について
223
:
常連
:2006/08/18(金) 12:13:37
>学会の原点が戸田第二代会長の悟達にあるということを、さまざまに表現しました。
>たとえば、そこから「生命の暖流が流れはじめた」とか「仏法を現代に蘇生させた」とかいいましたが、
>いずれも学会の広布弘教の起点を意味したものであります。
>この意味をより正確にいえば、戸田第二代会長の獄中の自覚と決意が戦後の折伏活動の起点となったということです。
ここでも「悟達」の有無を否定してはいません。「正確にいえば(略)自覚」と記載されてますが、
「自覚」には悟りを開く意も含まれてます。
『大辞泉』
じ‐かく【自覚】
1 自分の置かれている位置・状態、また、自分の価値・能力などをはっきり知ること。
「―が足りない」「体力の衰えを―する」
2 仏語。自ら迷いを断って悟りを開くこと。覚他(かくた)。
>戸田第二代会長の悟達の意味を「己心の久遠の仏としての生命を覚知した」と解釈したことについては、
>これは妙法に対する題目の力によって、我が胸中に力強く仏界が湧現することを表現しようとしたものでありますが、
>十分その意を尽くしていないので、そうした言葉は使わないようにします。
ここでも「悟達」の有無を否定した意にとれません。
私が独歩さんの提示した証拠で納得いかない理由はお分かりになりましたか?
③もう一度私の主張をまとめます。
私は、実際に「悟達」があったかどうかはわかりません。
ただし、文献(小説)にはそう記載されています。
また、戸田師の分にも内容においては「悟達」と表現しても支障のない文章が存在してます。
私にとって、「悟達」があったかなかったかなどはどうでもいいのです。
ただし、公共の掲示板と言う性質上、証拠もないのに断定口調で判断すべきではないと申しています。
何も証拠がないにもかかわらず一方的に断定するのは愚の骨頂であると申しております。
ちなみに独歩さんの唯一の根拠としている資料ですが、悟達はなかったと言う明確な記載はありません。
それならば「悟達はなかったのではないか?」と言う表現にすべきではないでしょうか。
私が指摘してるのは徹頭徹尾「表現」です!
>創価学会員の”沖浦”という方ではないでしょうか?
これは独歩さんへのレスではありません。 沖浦って誰でっか?
224
:
常連
:2006/08/18(金) 16:33:35
×)戸田師の分にも
○)戸田氏の文にも
訂正します。
225
:
犀角独歩
:2006/08/18(金) 22:56:21
常連さん
応答する前に一つ、質問させてください。
(1)「断定はよくない」というわけですが、では、「悟達した」という断定は、よいのでしょうか。
(2) 悟達があったと思われるではなく、戸田さんが「悟達した」とする文献の提示はどうなさいましたか。
(3) 「「悟達はなかったのではないか?」と言う表現にすべきではないでしょうか」ということですが、あなたは学会員ではないそうですが、その非学会員であるあなたからして、その論法からすると、「獄中の悟達」というより、「悟達はあったのはないか?」とした表現のほうがよいことになりますね。それにもかかわらず、創価学会は悟達はあったと断定しています。この決めつけ、断定を、あなたは批判しますか。
(4) 「文献(小説)にはそう記載されています」ということですが、小説に記されていることは事実の証拠とするのは何故でしょうか。
上記、質問とは別事ですが、わたしは、あなたを精神病呼ばわりする意図はまったくありません。「空想と現実の区別がつかない」状態は、何も精神病でなくても、社会一般でもよくあったことでしょう。たとえば、中世では、太陽は地球の周りを回っていると信じられていました。「神様が人間を中心に万物を創造したから、地球(平らな板のような大地とも考えられていた)が中心である」と空想されていましたが、それは現実ではありませんでした。このように考えている人々はしかし、別段、精神障害であったわけではありません。
精神病の定義は、一般的には以下のようなものがあります。わたしは、そのような通年に従って考えますので、あなたのような論法で精神病を定義したわけではありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E7%97%85
正確に回答するために必要ですので、では、まず、上記4つの質問にお答えください。
226
:
犀角独歩
:2006/08/18(金) 22:57:52
【225の訂正】
誤)通年
正)通念
227
:
無徳
:2006/08/19(土) 00:24:11
常連さん横レス失礼します。
以前はこの掲示板でいろいろな論議に参加させて頂いた者です。わけありで
しばらく遠ざかっていましたが、常連さんのご意見に気になる点がありました
ので、久しぶりに書き込ませていただきます。
>戸田師の分にも内容においては「悟達」と表現しても支障のない文章が存在
してます。
と常連さんは述べられておりますが、戸田城聖氏のいわゆる「獄中の悟達」が、
<仏とは、生命の表現なのだ! 外にあるものではなく、自分の命にあるもの
だ! いや、外にもある! それは宇宙生命の一実体なんだ!>
とされていますが、戸田氏のこの文章が常連さんにとって<内容においては
「悟達」と表現しても支障のない文章>とされることには大きな疑問を感じ
ます。
なぜかならば、悟達と言われる語彙にはいろいろな解釈があるとされますが、
仏法上では仏の悟りの内実と同位に達することを意味する語彙ではないでしょ
うか、その仏の悟りの内実とは「縁起」と「空」さらには「諸行無常」「諸法
無我」「涅槃寂静」の三法印に「一切皆苦」を加えた四法印であることに異論
のある方はあまりおられないと思われます。
「縁起」と「空」は現代思想的に言えば、あらゆる存在が関係的であり無実
体であると解されています。インド応誕の釈尊もアートマンやブラフマンと言
った、バラモン的な実体存在理解を徹底的に批判否定されて悟りに到達したと
されていることは常連さんもよくご存知のことと推察いたします。
であるならば、戸田氏の<仏とは宇宙生命の一実体なのだ>と言う自覚(悟
達)は、仏法的な理解に反したものといわざるを得ません。つまり釈尊の悟達
とは似て非なるものと思われます。
常連さんにとって戸田氏の言われる<仏とは宇宙生命の一実体なのだ>とは
如何なる事と理解されますでしょうか? お答え願えれば幸いです。
228
:
犀角独歩
:2006/08/19(土) 07:09:59
【225の訂正】
誤)「悟達はあったのはないか?」とした表現のほうがよいことになりますね
正)「悟達はあったのではないか?」とした表現のほうがよいことになりますね
229
:
ひきこもり
:2006/08/19(土) 15:20:51
>>227
問題は私達が生まれる前はなんであったか、死んだあとはどうなるのかと言う点です。
無徳さんはかなり前から、独歩さんと論争されていますが、信心の自分の体験が無ければ
駄目です。私はあります!ですから言っているのです。生命論は体験無くしては分からないのです。
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