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身延相承書と池上相承書について

181れん:2008/02/05(火) 19:41:10
犀角独歩さん

二箇相承は、日代退出後の日妙門下により作成されたものであることは、動かないものと思われます。日興文献ですと、身延久遠寺住職を“院主”と記してますが、二箇相承は別当と書いています。もし、二箇相承が日蓮真撰ならば、日興もこれに倣い身延久遠寺の住職の称号を“別当”と書いていた筈で、院主とは記さなかったと愚考します。ですから、二箇相承は日蓮・日興を去ることかなり時間が経過してから作成された文献であることは確かです。
北山では、六代の日浄師が自筆の漫荼羅に“本門寺”と記している由ですので、日浄師の代には、北山は二箇相承と本門寺大堂本尊と称する日蓮自筆?漫荼羅を前面に出して我こそ富士山本門寺戒壇根源也!とやっていた様です。日浄は保田妙本寺の日安により苦境を助けられたことがあり、恩を忘れず生涯日安自筆の漫荼羅を拝んだと言います。保田に三位日順の著作その他北山文献の写本が多く伝わるのも、この時期の保田と北山の通用によるものと思われます。当時の保田と北山の通用が石山を刺激して、特に北山の戒壇論に対抗するために、この頃に恐らく初代彫刻が作成されたであろうことは想像に難くありません。日時の三師伝に「日興上人と御本尊にあそばす」とある漫荼羅は北山の本門寺大堂本尊を指すと考えられるので、日浄以前においては、北山と石山の関係は険悪ではなかったでしょう。にもかかわらず、日時が三師伝において本門寺大堂本尊に触れても二箇相承に触れなかったのは、石山での日時の住持時代つまり室町初期には、まだ北山では二箇相承はその存在が無かった。つまり北山において二箇相承が、室町初期の時点ではまだ作成されていなかったことを示すものであろうと愚考するものです。

182れん:2008/02/06(水) 20:14:38
私が所持する富要の申状見聞の当該箇所の読みは「正慶二年より明応八年迄百六十七年奏する人これ無しこれに依って日目門下にも何にも此の状を日中に読み奉らず、爰に日要これを奏す争かこれを疑ふべけんや」となりますね。
他山の教義で自山に都合のよい部分をチョイスして平然としている石山の我田引水ぶりは独歩さんの示される通りです。
戒壇本尊と称する彫刻を作成するに至る動機は保田の万年救護大本尊や北山の本門寺大堂本尊の存在にありましたでしょうし、唯授一人血脈相承なるものを殊更に高唱するにいたった理由も、日目の跡を継承した保田妙本寺より優位に立とうとする意識によるものでしたでしょう。
ここで改めて気付くのは、やはり石山門徒の祖である日道は、日興・日目から受け継いだ日蓮自筆の漫荼羅が無かったということですね。そこが後の石山の数々の捏造の出発点であったと思えてなりません。

183犀角独歩:2008/02/07(木) 18:42:09

れんさん

ご批正、有り難うございます。
なお、我田引水のご指摘は、れんさんがまずなされたことです。わたしは同意いたしたまでです。


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