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身延相承書と池上相承書について
179
:
犀角独歩
:2008/02/02(土) 09:55:36
れんさん
二箇相承は北山文書であるという点を詳説いただき、参考になりました。
この相承を真書であると仮定して考えても、いくつもの矛盾があります。
そもそも、北山本堂には日代という継承者がいたのであって、ならば、二箇相承の継承は当然、日代になされたことになります。「いや、日目上人だ」と石山は言うわけですが、では、日興没後、半年後に天奏途上で没した際、日興正統を証し、さらにこの文書の継承者こそ、日興の正嫡であることを証する二箇相承を、なぜ天奏に携えなかったのかという問題が生じます。このお供は、日郷、日尊であって両者とも北山に戻っていません。携えていたと主張したところで、その後、二箇相承が北山にあり続けた辻褄が合わないことになります。武田勢の略奪で失したという二箇相承は、それまで北山にあり続けたわけで、ただの一度も石山にあったことはないわけですね。また、日代が北山を退出するに当たり、これほど、重要な文書を正系を証する日代が持って出ないこと自体不自然とも言えます。
かつて顕正居士さんが「富士山に本門寺の戒壇」という読み下しが間違っていると指摘されました。ここでいう富士山は寺の山号なのであって、即ち「富士山本門寺」の、もしくは「富士山本門寺」に、戒壇であるわけです。富士山本門寺とは北山、西山両山の山号ですね。つまり戒壇建立の寺は石山ではなく、富士山本門寺であるというのが、この文書の趣旨です。この点の不都合を埋め合わせるために、「広宣流布の暁には、大石寺は本門寺と改称する」という嘘に嘘を塗り重ねた言い訳もでっち上げたわけですね。で、この偉業を為すのが日目であるも言います。
日目は再誕し、一閻浮提座主になるという伝説も石山は、自分たちに当て嵌めていいます。これも何度も書いたことですが、日目再誕を説明するのに石山が持ち出すのは房州日我の『申状見聞』です。
「若し此の状奏間の人、未来於てに有らば、之れ日目が再来と可し知る」
であるから、広宣流布の時には、日目が石山の猊座に再度上がるんだというストーリーです。ところが、この文章には、以下の続きがあります。
「然る処に正慶二年より明応八年迄百六十七年奏する人無し 之れ依て之れに日目門家にも何にも此の状を日中に奏して読まず、爰に日要奏す之れを争か可けん疑ふ之れを乎」
さらにこの文書は日要が見た霊夢の話に繋がり、日要こそ日目の再誕であることを、日我は滔々と記していくわけです。つまり、この日目再誕説は、保田妙本寺のおカブであったわけです。それを日目再誕の頭の部分だけを切り文して石山のこととし、さらに北山のおカブである二箇相承とくっつけて、さらに膨らませます。
まさに、れんさんが仰るとおり、我田引水というほかありません。
そして、西山の伝わる日興本尊を模し「大石寺持仏堂安置本尊」を捏造し、なにより、「本門戒壇の大御本尊」という彫刻まで捏造し、嘘に嘘の物的証拠をでっち上げ、自山顕彰する姿は、浅ましい限りです。
今回、れんさんのご投稿を拝読し、ここで「日要」の名が上がることから、この周辺の賑わいは、石山が我田引水に走る動機を煽る十分な出来事があったのだろうと思えました。
180
:
犀角独歩
:2008/02/02(土) 14:40:37
ひどい読み下しになっていました。
「然る処に正慶二年より明応八年迄百六十七年奏する人無し 之れに依て 之れ日目門家にも何にも此の状を日中に奏して読まず 爰に日要之れを奏す之れを争か疑ふ可けん乎」
といったところでしょうか。手元にテキストデータしかなく、書籍原文が見られません。違っていれば、どなたか訂してください。
nb資料室に全文が載ります。
(たぶん、この文章は、わたしが所蔵する富要テキストデータと同じだと思えます。返り点などを考慮せず、ベタ打ちのママになっています。このデータを作ったのは大木道惠師です。その業績は大なるものがあります)
http://www.mitene.or.jp/~hokkekou/yousyuu/yousyuu4_5.htm
181
:
れん
:2008/02/05(火) 19:41:10
犀角独歩さん
二箇相承は、日代退出後の日妙門下により作成されたものであることは、動かないものと思われます。日興文献ですと、身延久遠寺住職を“院主”と記してますが、二箇相承は別当と書いています。もし、二箇相承が日蓮真撰ならば、日興もこれに倣い身延久遠寺の住職の称号を“別当”と書いていた筈で、院主とは記さなかったと愚考します。ですから、二箇相承は日蓮・日興を去ることかなり時間が経過してから作成された文献であることは確かです。
北山では、六代の日浄師が自筆の漫荼羅に“本門寺”と記している由ですので、日浄師の代には、北山は二箇相承と本門寺大堂本尊と称する日蓮自筆?漫荼羅を前面に出して我こそ富士山本門寺戒壇根源也!とやっていた様です。日浄は保田妙本寺の日安により苦境を助けられたことがあり、恩を忘れず生涯日安自筆の漫荼羅を拝んだと言います。保田に三位日順の著作その他北山文献の写本が多く伝わるのも、この時期の保田と北山の通用によるものと思われます。当時の保田と北山の通用が石山を刺激して、特に北山の戒壇論に対抗するために、この頃に恐らく初代彫刻が作成されたであろうことは想像に難くありません。日時の三師伝に「日興上人と御本尊にあそばす」とある漫荼羅は北山の本門寺大堂本尊を指すと考えられるので、日浄以前においては、北山と石山の関係は険悪ではなかったでしょう。にもかかわらず、日時が三師伝において本門寺大堂本尊に触れても二箇相承に触れなかったのは、石山での日時の住持時代つまり室町初期には、まだ北山では二箇相承はその存在が無かった。つまり北山において二箇相承が、室町初期の時点ではまだ作成されていなかったことを示すものであろうと愚考するものです。
182
:
れん
:2008/02/06(水) 20:14:38
私が所持する富要の申状見聞の当該箇所の読みは「正慶二年より明応八年迄百六十七年奏する人これ無しこれに依って日目門下にも何にも此の状を日中に読み奉らず、爰に日要これを奏す争かこれを疑ふべけんや」となりますね。
他山の教義で自山に都合のよい部分をチョイスして平然としている石山の我田引水ぶりは独歩さんの示される通りです。
戒壇本尊と称する彫刻を作成するに至る動機は保田の万年救護大本尊や北山の本門寺大堂本尊の存在にありましたでしょうし、唯授一人血脈相承なるものを殊更に高唱するにいたった理由も、日目の跡を継承した保田妙本寺より優位に立とうとする意識によるものでしたでしょう。
ここで改めて気付くのは、やはり石山門徒の祖である日道は、日興・日目から受け継いだ日蓮自筆の漫荼羅が無かったということですね。そこが後の石山の数々の捏造の出発点であったと思えてなりません。
183
:
犀角独歩
:2008/02/07(木) 18:42:09
れんさん
ご批正、有り難うございます。
なお、我田引水のご指摘は、れんさんがまずなされたことです。わたしは同意いたしたまでです。
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