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顕正会の実態を検証する
84
:
一刀両断
:2003/12/04(木) 15:28
顕正会は過去はそれなりに教義に対して忠実な組織であったろうと私は考えています。
しかし次第に路線を逸脱していった背景には、やはり痛烈な宗門批難の繰り返しから、修復不能となった正宗との関係があったからではなかろうかと考えます。
私自身、何よりも痛烈に感じた会の路線変更は、完全なる初期目標の見失、であろうかと考えます。
昭和四十年代に勃発した戒壇論問題から顕正会は常に国立戒壇論の主張のみを繰り返し、この戒壇論の宗門復活の為に会員は没頭してきたわけです。
会は今でこそ広宣流布は顕正会で為す、というような発言が繰り返されますが、当時は会長自らが会の存在意義を御遺命守護のみに尽きる、と発言し、御遺命守護完結ができたならばもう顕正会は必要ないとさえ断言してきたわけです。
多分当時の会長構想は御遺命守護完結、つまり国立戒壇論さえ宗門に復活すれば、ある程度顕正会の主導は想像していただろうけれども、僧俗一体になって広宣流布へ突き進んでいけるのだろうと考えていたのでしょう。
このため御遺命守護という言葉は観念文にさえ含まれ、遙か総本山に顕正会主張の論が受け入れられる事をただひたすら目指して活動してきたのですから、当時の会員にとってはそのことのみが主眼であったわけです。
ところが、御遺命守護という言葉の意味合いが突如変更されてしまったわけです。
本来は国立戒壇論の宗門復活を意味していた御遺命守護という活動は、平成十年の戒壇本尊遷座を以て会長は御遺命守護完結としてしまい、当初目的としていた御遺命守護の意味を変更したことによって、宗門に戒壇論の復活もなければ顕正会主導の広布布陣体制も出来上がらなくなってしまったわけです。
これは当時の会員にとっては理解しがたい会の行動であり、また多くの幹部が会を去ってしまった事実がその衝撃の大きさを物語っていると思われます。
では元々顕正会には変貌体質があったのだろうか、一体何が変貌を遂げさせてしまったのかと考えると、私は平成二年の本門寺改称陰謀粉砕(顕正会呼称名)に会全体が躍起になっていた辺りではないだろうかと思うのです。
それまでは顕正会というよりも、一講中として宗門を諌めていくスタンスを取っていたのに対し、この辺りから次第に独自の会で広布達成を目指すようなスタンスに切り替わっていったように思えるのです。
そして、度重なる書籍、文章等による宗門批判も黙殺、或いは否定される事態を見る中、宗門復帰は恐らく不可能と感じた平成五年辺りに、完全に会長崇拝路線に変更、これが表面化し、具体的には会歌で会長を賞賛させたり、何ら信仰に無関係である体育文化祭など文化的活動も開始されるようになり、また教義的にも独自の教義解釈が頻発するようになってきたのだと思います。
本年の元旦勤行などは、芙蓉楽団と称する和楽団が演奏を奏でたりと、古参の幹部や元会員の者から見るととても信じられない様々な装飾がなされているのです。
或いは教義的には会員には「無智たる仏弟子」を推進しています。
「歓喜の増幅」「一念信解」などと言って、会員の無教学化をすすめており、これは一見すると会そのものの弱体化に繋がりそうですが、その実はかえって団体信仰のみに忠実になれる者達を増やしているわけです。
十五年前の会員でしたら、現在の無智な会員などいようものなら、とんでもない叱咤を先輩から受けたものです。
全てが路線変更されていきながらも、それでいて日蓮正宗教義を主点においている会体制というのは、何とも興味深さを感じるものです。
そして現在の諸問題、とりわけ四派乱立したような正宗問題も、元を見ていけば、やはり日蓮正宗の教義そのものに欠陥を感じてしまうのです。
それは教義の矛盾などではなく、教義そのものに含まれる、信を以て全てとするという根本的な教義こそが、顕正会などの独自の組織が生まれてきた原因ではないだろうかと思うのです。
この度顕正会が百万(公称)を達成したという情報を耳にし、今後、多くの場で問題提起され、議論されていくものだろうと考えています。
長文失礼いたしました。
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