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顕正会の実態を検証する

811偶ロム偶ログ:2008/05/09(金) 16:22:10
>>809

>コピーだから偽というのは、どういう御書がより所なのでしょうか。

私の立場は簡単です、真蹟は本物、真蹟を書いた本人の知らないところで作られた
ものは「似せもの」「まがいもの」である、と考えます。
コピーを「偽」とは思いませんよ。
ただ、素直にコピーであるというだけのしろものです。
したがって、御書云々以前のことと考えます。

>写本を引用してはならないとすると、羅什訳の法華経も真跡以外は全て謗法となりますが

大昔は今日いわれるような経典の成立年代とか成立過程はほとんど考慮されて
いませんでした。
他宗伝来の経典であっても、当時の仏教僧は経典じたいを仏語と信じていました。
他宗を毀謗するようなこともあまりなく、日蓮の他宗批判は釈・疏・言説・行為
に対してであり、浄土三部經それじたいを難ずることはされていません。
いっぽう「御書」についていえば、真蹟および直弟の写本以外の「御書」は、
たいていの場合、直弟死亡後に出現しています。
もちろん中には直弟が書状などで引用していたものもごく少数あり、それらは
真蹟に準ずるものとして考えることも可能です。
しかし、ほとんどの場合は、その当時の門流なり寺院なり僧侶なりが、各自の
置かれた状況によって何らかの必要に駆られて創作したものと考えられます。
写本については、ほとんどの場合、初出がわかります。
そしてそのほとんどは大石寺系以外つまり大石寺からは謗法とされるところから
「写本」として世に出てきているのです。
他山他門のものでも、自分に都合がよければ利用する、というのはご都合主義と
いわれても仕方のないことであると考えます。

A、真蹟
B、直弟の写本
C、直弟死亡後に出現した写本

「御書」と言えるのは厳密には、Aだけです。
Bは、複数の直弟が写本を殘していればとりあえず「御書」と考えても良いでしょう。
Cは、たとえ内容が信仰に資するものであっても「御書」ではありません。
あくまでも「門流文書」として読まれるべきなのです。

蛇足になりますが、よく「文証」という言葉が使われます。
これも厳密には、經・釈・疏に限られます。
日蓮は、法華最勝・法華最大一、を論証するために經・釈・疏を引用しました。
「御書」を「文証」としてあげる場合、使用できるものは「御妙判」だけです。
正宗系を含む日蓮系の他宗教・他教団・他門流を批判とか「破折」するときに
「御書」を出してもそれは「文証」とは言いません。
たんに「引用」にすぎないのです。
正宗系を含む日蓮系の他宗教・他教団・他門流が法華経に違背しているという
のであれば、そのときには經・釈・疏ならびに「御妙判」を「文証」として
批判すれば良いのです。

尚、日蓮在世当時の仏教において、末法無仏、は常識でした。
これは日蓮とても例外ではありません。
無仏世界だからこそ菩薩が出現する、これが日蓮の解釈であり立場でした。
当時の仏教において、釈尊滅後に出現し衆生を救済する仏は弥勒仏である、と
考えられていました。
この考えを否定する日蓮の「御書」は存在しません。
釈尊滅後から弥勒仏出現までの無仏期間、代わりに衆生を済度するのは菩薩なのです。
かりに「日蓮本仏論」を主張する場合は、これもまた、「文証」として使用できるのは
經・釈・疏だけに限られることは言うまでもないことです。。


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