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顕正会の実態を検証する
780
:
犀角独歩
:2008/01/29(火) 18:50:41
>問答さんへの御礼を他に書いてしまいました。
こちらでも深く御礼申し上げます。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015557630/1910
>偶ロム偶ログさん
> 浅井会長は宗教社会学者の西山茂氏と親しいそうです。
この話は西山さん本人から直接聞きました。「会えば、『よおっ』ていう関係だ」と言ってしましたね。まあ、宗教学やら、社会学という学問的に公平な立場にありながら、「本化」などというのは、信仰と学問の公私混同、岩本師が言う僧学の亜流のような印象ですね。
一方、浅井さんも、仰るとおりで、わたしを謗法呼ばわりしながら、西山さんは野放しはアンフェアですね(笑)
まあ、そんなところだろうと思います。
■岩本師の「僧学」(世界の宗教7『布施と救済』淡交社 P234)
「これは耳新しい言葉であろう。もちろん、辞書にも見あたらない。というのも、不思議はない。著者の新造語であるからである。
著者は昭和39年11月27日から同年12月11日までの間に6回にわたって「中外日報」紙上に『仏教学を批判する』という一文を書き、現在のわが国の仏教学が抱きかかえている種々の問題をえぐり出してみたのであるが、そのなかで「僧学」という言葉を用いたのである。と言う意味はつぎのようである。
わが国仏教学という学問が存在する。そして、仏教学者なるものがいる。ところが、いわゆる仏教学者の99パーセントまでが僧侶である。したがって、僧侶なるがゆえに先入観があり、また護教的でないまでも護身的ならざるをえないのではないか。いいかえると、僧侶なるがゆえに身分上の制約があるのではないか。とすれば、そこに仏教の科学的研究がはたしてあるだろうか。ここに疑問を発したとき、僧侶である仏教学者の研究する仏教学なるものは、たといそこに文献的方法を援用したり歴史的考察を加えたりしても、結局それは学問研究の鬘か仮面をかぶった鵺(ぬえ)的な存在にすぎないと言わざるをえないのであろう。そこで、著者はそういう学問をしている人びとすなわち僧侶出身のいわゆる仏教学者を「僧学」と呼んだのである」
また、『佛教入門』(中公新書)に「実に佛教と学問を混同し、学術的研究と教学とを同一視し、両者の区別を付けられないのがわが国のいわゆる佛教学者、特に僧侶で佛教学者といわれる人が多いことも知っておく必要があろう。このような人々はかれらが学術的論文と称するものにおいても説教を忘れない」(はじめより)とは、まったく勇気ある指摘であると感歎したものでした。
まあ、西山さんは坊さんではないにせよ、公然と「本化」を自称する以上、その現場では、学問と信仰の公私混同、アンフェアとならざるを得ないのでしょうね。さらに、いまこれだけ世を騒がせている集団の長となあなあの関係というのは、学者としての良識と言うより、社会的に問題を感じます。
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