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顕正会の実態を検証する
640
:
犀角独歩
:2005/12/02(金) 16:49:28
ただし、安永3年(1774)の日穏『五人所破抄一覧』には
「戒壇の地を富士の天生山に撰び置き板御本尊及戒壇堂の額御真筆在り」
とあり、山と変遷しています。また、この文書が興味深いのは、「在り」となっている点です。
この変遷はあまふ―天生原―天生山で、近代でこれが天母山戒壇論へと転訛していった様子が窺えます。
要法寺・日教がこれを語ったのは1488年で、大石寺・日精が言ったのは1657年、169年の隔たりがあります。また、日教があまふの原六万坊から天生山戒壇までには286年の時の経過があります。
以下、天生原、六万坊の記載を挙げます。
初出は要法寺出の日教『類聚翰集私』であろうと思われます。
1488(長享2)類聚翰集私(日教)
「日本国の駿河富士郡大日蓮華山より本門の戒壇院立つて、あまふの原に六万坊立て」
「天生か原に六万坊を立て法花本門の戒壇を立つべきなり」
「天生原に六万坊建立有るべし差図の様を付属の事」
1547(天文16)百五十箇条(日教)
「富士の麓に六万坊立つべき御差図有りと伝へ承るなり」
「戒壇院は広宣流布の時御崇敬有り最も六万坊を建立有るべし」
1545(天文14)申状見聞私(日我)
「冨山六万坊の時王城関東に可き建つ事」
1657(明暦3)富士門家中見聞抄目録(日精)
「今の上野、重須、妙蓮寺、東光寺、西山、久遠寺已上六箇寺之れ有り、自然に六万坊の表事に叶ふ」
1722(享保7)報恩抄文段下末(日寛)
「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」
1774(安永3)五人所破抄一覽(日穏)
「戒壇の地を富士の天生山に撰び置き板御本尊及戒壇堂の額御真筆在り」
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