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顕正会の実態を検証する
313
:
ガンコ
:2004/02/22(日) 11:41
愚鈍さんよりご質問をいただきました。
十章抄に「一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず、何に況んや爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る。」とありますから、三大秘法抄の「方便品に云はく・・・底下の凡夫理性所具の一念三千」と「寿量品に云はく・・・大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千」では明確な差異があると思います。平たく言えば、凡夫にも仏性がある、という理論を示したのが方便品であり、寿量品では事実において仏を証得したことを示していると思います。理論と事実・・・単純にこれを当てはめて理壇・事壇を述べさせていただいたのですが、もともと次元のちがう法門ですから違和感があるかもしれません。
四信五品抄に「・・・『廃事存理』と云ふは戒等の事を捨てゝ題目の理を専らにす」とあります。これがわたくし、長い間わからなかったんです。いかに仏法の基本がわかっていないか、ということなのですが、だいたい解説によると、小乗経等はおもに戒律を堅くたもつことを修行とするから「事」といい、天台は観念観法を主体とするから「理」というそうです。一種のすりこみだったんでしょうか、わたくしなどは事と理では事がまさると思い込んでいたものですから、なかなかわからなかったのだと思います。
十章抄に戻って「真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり。心に存ずべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり。日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなえさすべし。」とありますし、開目抄には「されば日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし。」とありますから、これは当たり前のことですが、大聖人の仏法は基本的に天台の教理を踏襲していることになります。
しかし後年、大聖人は「竜樹・天親・天台・伝教は余に肩を並べがたし」等と仰せになられますし、すでに開目抄でも「設ひ山林にまじわって、一念三千の観をこらすとも、空閑にして三密の油をこぼさずとも、時機をしらず、摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき。」と、間接的に天台の教理を批判しているわけで、大聖人の仏法が別のものであることを示していると思います。
その顕著な御書のひとつが治病大小権実違目かと思います。
「一念三千の観法に二あり。一には理、二には事なり。天台・伝教等の御時には理なり。今は事なり。観念すでに勝る故に、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千なり。」
つまり、大聖人は天台伝教等との明確なちがいを表現するために事・理の立て分けをあそばしたのだと思います。四信五品抄では従来の教説を踏襲してそのまま「廃事存理」と仰せになっているだけで、最終的には廃理存事が大聖人の御本意であろうと思うのです。
そういうことで、御晩年に著わされたとされる三大秘法抄も同様に、廃理存事であろうと考えました。
いずれにしても、はじめに述べたように、もともと戒壇についての御教示ではないので、的外れかもしれません。
ぜんぜん質問の答えになってないかもしれませんね。失礼しました。
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