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顕正会の実態を検証する

303ガンコ:2004/02/20(金) 14:08

戒壇論雑感 その4

先に、「一見非常手段と思える事壇定義変更」・・・けれども「日達上人の御指南のほうが本源的」と書いた。その理由について、申し述べたい。

「問ふ、一念三千の正しき証文如何。答ふ、次に申し出だすべし。此に於て二種有り。方便品に云はく『諸法実相所謂諸法如是相乃至欲令衆生開仏知見』等云々。底下の凡夫理性所具の一念三千か。寿量品に云はく『然我実成仏已来無量無辺』等云々。大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千なり。」(三大秘法稟承事)

申すまでもなく、三大秘法抄における戒壇の御指南はこの前の段であって、ここは戒壇についての仰せではない。しかし、すでに述べたごとく大石寺では本尊所住の処を戒壇とするわけであり、「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり」(草木成仏口決)を合わせ拝するならば、戒壇論に応用できるであろう。
「底下の凡夫理性所具の一念三千」とは、その1で引いた諸御書の御指南と同義であり、おそらくは理壇論の範疇であろうと書いた。ここでは迹門に相当することになる。己心の戒壇といっても衆生の己心では、迹門の域を出ないわけである。
そして、「大覚世尊久遠実成の当初証得の一念三千」とは、理壇に相対するならば、まさに実質的な戒壇建立の意味となる。一般に、事壇とはこの意味であるが、しかし、日達上人はさらに原意に立ち還って、大聖人己心の戒壇を仰せられたものと拝する。すなわち、立宗より発迹顕本を経て出世の本懐に至る大聖人の御振る舞いこそ、「久遠実成の当初証得の一念三千」であり、その当体が本門戒壇の大御本尊にてましますのである。

また、「因果倶時・不思議の一法之有り」(当体義抄)をも戒壇論に応用すれば、順序次第のうえからは戒壇の大御本尊が因であり、戒壇建立は果となる。ところが御文のごとくならば、因果倶時である。つまり、戒壇の大御本尊が顕わされたと同時に本門の戒壇も顕われたと拝するべきであり、日達上人はこの趣きにしたがって事の戒壇を仰せられたものと拝することができる。そして不思議の一法は、そのまま三秘総在を思わせる御文でもある。

そもそも大聖人は、「延暦寺の戒壇は迹門の理戒」と仰せあそばす。注目すべきは、比叡山延暦寺の円頓戒壇をさして迹門の理戒とするところであろう。つまり、実質的な戒壇建立の有無にかかわらず、迹門は理戒であり、本門は事戒となる。いわゆる法体の相違である。
日達上人は法体に約して事壇を仰せられた。まさに「法華経の行者の一身の当体」「法華経の行者の正意」の戒壇である。


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