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顕正会の実態を検証する

300ガンコ:2004/02/20(金) 14:05

戒壇論雑感 その1

今や冨士大石寺における戒壇論は多種多様にして複雑をきわめる。
このところ、傍だの正だの、あるいは己心だのと、およそ戒壇論とは思えぬ言葉がとりざたされていたが、手塚寛道先生は「心に本門の戒壇を」と仰せになっているそうである。あるいはこれが己心の戒壇に相当するのであろうか。

「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり。是を九識心王真如の都とは申すなり。」(日女御前御返事)

有名な御文である。端的に申せば、御本尊は我等の己心にある・・・じっさいには「法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる」を省略すると正確さに欠けるのであろうが、ともかく端折って御本尊は己心に住するとしよう。つぎの「九識心王真如の都」とはものすごい御表現であられる。ここで「都」に注目するならば、なるほど大石寺では本尊所住の処を戒壇とするのであるから、これは己心戒壇となる。

「抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば、或は地の下と申す経もあり、或は西方等と申す経も候。しかれども委細にたづね候へば、我等が五尺の身の内に候とみへて候。」(十字御書)
「夫浄土と云ふも地獄と云ふも外には候はず、ただ我等がむねの間にあり。」(上野殿後家尼御返事)
「又衆生の心けがるれば土もけがれ、心清ければ土も清しとて、浄土と云ひ穢土と云ふも土に二つの隔てなし。只我等が心の善悪によると見えたり。」(一生成仏抄)

これらの御指南は必ずしも戒壇論ではないが、あえて戒壇論に準拠せしむるならば、おそらくは理壇論の範疇に属するものであろう。
では、大聖人はこれを正意の戒壇とせられたのであろうか? わたくしはちがうと思っている。少なくとも、己心の戒壇をいうばあい、その己心とは、第一義的には日蓮大聖人の己心を申し上げるのであって、これを外してしまったら本門の戒壇たりえないはずである。
よって、御義口伝に仰せの「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」に準拠しなければならない、とするのが大聖人正意の戒壇となるはずである。


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