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顕正会の実態を検証する
130
:
犀角独歩
:2003/12/10(水) 13:46
125〜127 アネモネさん:
>>カルト問題…家庭…宗教心が不在
> まさに社会全体の問題だと思います。
そうですね。
「日本人は無宗教である」という認識が一般化しています。しかし戦前までの日本人は極めて宗教的な人びとであったのではないのかと思えます。
戦後、「神々のラッシュアワー」と表現された如く、自由憲法の制定、さらに宗教法人法を経た宗教ブームはいまも続いていると言えます。日本人の宗教心情は実に両極端で、カルトと酷評されるほどの重症の宗教依存と極端な宗教無関心に二分され、その合間に伝統宗教その他に基づく因習化した儀礼ばかりの宗教が息をつないでいます。そこに共通しているのは宗教心の不在という点であるとわたしは思います。
このように記すと学会や顕正会を引き合いに出し、熱烈な信仰をしている多くの人びとがいると指摘される方もいるかも知れません。けれど、ここに宗教心はなく、あるのは宗教に仮託する利権組織と構成員だけです。そこで論じられることも行われることも宗教心というにはほど遠いものです。
マザーテレサが「日本は貧しい国です。人々は飢えています」というのはこの点なのでしょう。宗教心という心貧しく、慈愛に飢えているのでしょう。
このような状況下で学会を含む石山系集団が呈示する宗教心は、集団と指導者の絶対を補強されるために使用される日蓮本仏と本尊信仰だけでした。
当スレッドで言えば、顕正会は国立戒壇という現代の仏塔を建てれば国土安泰・人臣快楽(けらく)なるという戦前からの煽動をそのままに利用しているわけです。
絶対に正しいものを信じることが宗教心であるという詐術が罷り通っています。集団・指導者・教義・本尊を守る奴隷・兵隊になることを「絶対の確信」「強盛な信心」であり、そのような信念体系にある人格構成が正当化されています。
残念なことに一般の人々は疲弊し商業化した伝統教団に呆れ果てた挙げ句、全体主義しか想像させない絶対信仰に酔いしれる凶暴化した日蓮本仏集団の心象が宗教心なのだと思い、宗教心自体を捨て去る「無宗教」という選択を講じるしかなかったのかも知れません。しかし、宗教心を捨て去る代価はあまりにも高いものであったとわたしには見えます。
> 宗教心が不在…道徳や倫理観やさらに良心の育成…見落とされている
そのとおりですね。
無宗教を選択した人々は、宗教とともに、その心までも捨て去ってしまったように見えます。しかしでは、学会を含む石山系集団はどうかと言えば、宗教はあっても、その心がないという深刻な事態に陥っています。結局のところ、無宗教とカルト、この両極に分かれる宗教事情に共通しているのは、宗教“心”の不在でした。
砂漠の砂のように乾ききった日本人の宗教心、しかし、本来、人間には宗教心、いまアネモネさんがお使いになった言葉で拝借すれば「良心」があります。思春期から成人していく段階にある子供達は、この良心が何であるのか、どのように実践すべきなのかを教えられることがありません。教えられる親も先生もいないからです。心の飢渇状態にあります。子供達はどのような生きればいいのか、何より自分が何ものであるのかを理解することができず、学校制度というベルトコンベアで自動的に運ばれながら、社会に“排出”されてしまうわけです。
このときに「人生とは何か」「自分とは何か」「正しいものは何か」と、本来、容易に応えられないはずのことをいとも簡単に、安直に、答えを与えるのが宗教集団と指導者であるわけです。子供達は、この虚偽の答えを真実であると思い、熱中していきます。その熱中は、生涯継続する力を持っています。
確信を持って生きることを否定しているわけではありません。
虚偽の確信によってさらに失われてしまう宗教心の不在を悲しんでいるわけです。
上述の如き、強い信念体系を植え込まれて醸造される権威主義的パーソナリティでは、二極思考(善悪、白黒)に陥るために、そこには必ず差別観が生じます。
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