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顕正会の実態を検証する

120一刀両断:2003/12/08(月) 10:32
無徳さん はじめまして

>「君の考えや話し方は根本に日蓮仏法が見える。」
>「君の言葉には一見真理を追究した言葉のように見えるが、実は君自身の体験、
或いは実践結果に基づくものではない」

これはつまり、いくら日蓮仏法、特に本物論を基盤としてきた日蓮正宗系信仰をしていた私は、その信仰から脱したとしても、根本的な心の内側までは完全に脱しきれていない、思考回路はいつまでも信仰当時のままである、ということです。

これについては独歩さんが109において、更に詳らかに記して下さっていますので、そちらをご覧頂ければと思います。

そもそも私は顕正会で信仰する以前は何も宗教観を持たない一人間であったわけです。
身の回りに起こる様々な事象に対しても特に結論を見い出さず、いや出す必要もなかったわけです。
つまりその当時は「不思議なことがたくさんあるものだ」とか「どうしてこんな事になってしまうんだろう」と疑問は感じるものの、曖昧なスタンスであったわけです。
しかし信仰を持つと団体や教義から常に確信を教わり、その確信から眼を背けて生きていくことが愚かである事を教わるわけです。
そして年月を経るごとにその信仰、教義の反復作用によって何事に対しても結論を導き出さずにはいられないような思考回路を作り上げてしまうわけです。
そして例え信仰を捨てたとしても、その思考回路だけは既に信仰以前の自分ではなくなっているので、思い悩んでしまったりするわけです。
独歩さんはそれについて「思考の固さ」と表現しておりますが、まさしくこの通りなのです。

顕正会員と色々と話すのですが、すると彼等の結論は決まってこうなります。
「君はそう言うが、では絶対とは何であるのか?、どれが絶対なのか?」と。
この言葉は完全に思考回路が「絶対」というものに常に服従すべきである、という心理に陥ってるものでしかありません。
彼等は常に自分の人生を意味あるものにせずにはいられなくなっているので、「絶対服従」できる存在が必要とされています。
勿論意味のある人生は誰もが求めていることでしょうけれども、彼等の心の問題は「意味ある人生」とは「自分の人生は特別である」という意味であり、常に人生に意味を持たせてなくてはならないものになっているのです。
それが顕正会員であることが「意味ある人生」に摩り替えられ、正宗信仰者独特の「自分は特別の存在である」という事に「意味ある人生」を摩り替えて安堵しているのではなかろうかと思うのです。

しかしながら一旦信仰心を捨ててしまった時、その時点では自身は解放されたつもりでも、実はその「思考回路からの開放」まではされておらず、私の知人に指摘されたが如くの問題になってしまうのです。
非常に難しい問題であるので、その専門でない私には上手に表現できませんが、最近になって思うのが本当に解決せねばならないものの一つにこういった問題も含まれると思います。
単にカルト的思考団体からの脱出、カルト的信仰を捨て去るよりも、この問題は人格にまで影響を及ぼしているので、非常に難しいことではないでしょうか。


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