したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

法華経について

95一字三礼:2006/04/23(日) 19:06:04

顕正居士さん

レスありがとうございます。

> 常不軽は品の趣旨をとった意訳だとおもいます。

ご教示ありがとうございます。

> 四衆を択ばず礼拝した、対象は万人です。

ここが難しいところです。

「得大勢、何の因縁を以てか常不軽と名くる。是の比丘凡そ見る所ある若しは比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷を皆悉く礼拝讃歎して」
「乃至遠く四衆を見ても、亦復故らに往いて礼拝讃歎して」
「時に諸の四衆 法に計著せり 不軽菩薩 其の所に往き到って」

漢訳では明らかに「四衆」に限られ、「広く人のため」教えを説くのは六根清浄を得た後です。

「この求法者は僧でありながらも教えを説くことなく、経文をとなえることなく、会う人ごとに、たとえその人が遠くにいても、彼は誰に

でも近づいて、このように声をかけ、相手が誰であれ、このように言うのであった。」
「この偉大な志を持つ求法者は相手が誰であれ、誰にでもこのように声をかけたのである。」

梵文の長行では対象は万人に読めますが、詩偈ではやはり「四衆」に限るように読めます。

「そのとき、サダー=パリブータという僧の求法者がいた。そのとき、彼は邪見を信ずる他の僧や尼僧に近づき」
「そのとき邪教を信じていた僧・尼僧あるいは男の信者を、またその場合、女の信者に至るまで、すべて「さとり」に達しうると、かの賢

 者は宣言した。」

> 万人を礼拝したということは潜在の仏性を礼拝したわけで、仏性の名はないが、仏性の思想が法華経にあるとする根拠です。

礼拝の後、不軽菩薩は「授記」をしたわけですが、「授記」を得られる対象は最低でも菩提心を必要とするのではないでしょうか。
宗学的な言い方をすれば、名字即でなけれまならない、理即では不可。

「薬王、汝是の大衆の中の無量の諸天・龍王・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩・羅伽・人と非人と及び比丘・比丘尼・優婆塞

 ・優婆夷の声聞を求むる者・辟支仏を求むる者・仏道を求むる者を見るや。是の如き等類、減く仏前に於て妙法華経の一偈一句を聞いて

 、乃至一念も随喜せん者は我皆記を与え授く。当に阿耨多羅三藐三菩提を得べし。」(法師品第十)
「又如来の滅度の後に、若し人あって妙法華経の乃至一偈・一句を聞いて一念も随喜せん者には、我亦阿耨多羅三藐三菩提の記を与え授く

 。」(法師品第十)

’仏性’というものを想定した場合は、法華経での「授記」の原則が崩れてしまうように思います。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板