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法華経について

262犀角独歩:2008/06/08(日) 23:14:08

偶ロム偶ログさん

なるほど。まあ、わたしが「創作」というとき、お釈迦さまが説いたものでない程度の意味で使っているんですが、そうなると、では誰がつくったんだということになりますね。お釈迦様の言葉でない証拠があるのかともなるかもしれません。仮にお釈迦さまが説いたとしても、お釈迦さまがつくったわけですから、実は、創作という言葉は当てはまりますね。ただ、法(ダルマ)として見なされる場合は、法は自然(じねん)であるから、これを解説(げせつ)したことを、普通は創作とは言わないわけです。一方、教法の場合、いわば修行のやり方みたいな側面がありますから、考案、創案に類して創作ということができるかも知れません。

ただし、わたしが「創作」というとき、お釈迦様の言説とは無関係といった意味で使っています。ただ、何百年かの口伝承がそこに含まれるわけですね。一字三礼さんのご投稿といえば、たとえば212に「方便・譬喩等、『法華経』最初期に成立したと考えられる品では、部派教学をそのまま採用」ということでした。では、この部派教学は口伝承を文字化したものでしょうから、そのなかにお釈迦様の言葉が入っている可能性がある。ただ、だから、法華経は仏説なのだといえるかどうかですね。

わたしの好きな科学者に故アーサー・C・クラークがいます。映画ファンならご存じでしょうが、ジョディー・フォスター主演の『コンタクト』の原案は、この科学者の手に拠ったわけですね。そうなると、この映画は科学者が科学的な根拠を基礎にして書かれたものだ。であれば、この映画は科学の教科書と同じかといえば、映画はどこまでいっても、フィクションですね。

同じように法華経も、部派の教学を基本にしていたとしても、増広された部分が荒唐無稽なSFみたいなわけですから、この部分までも仏説だと、とうてい、思えないわけです。

一字三礼さんとわたしの話が噛み合わないのは、上述の例で言うと、基礎にした科学:部派教学、それに基づく物語:フィクションで、一字三礼さんは前者に、わたしは後者に力点があるからではないかと思えるのですね。

わたしが無謬性というと、無謬性なんかあるはずはないと、一字三礼さんは反論されたのですが、よく読んでいただければわかりますが、無謬性がないとわたしも言っているのです。無謬であるといったのは、わたしではなく、日蓮であり、ここでいえば、大石寺であり、創価学会、顕正会でした。だから、そうした集団が懐く無謬神話をわたしは違うと言ったわけですから、無謬性否定という点で一字三礼さんとわたしは同じ事を言っているのですが、どうも、ここでも話が食い違いました。


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