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法華経について
219
:
一字三礼
:2008/05/10(土) 23:03:32
つづきです。
この「従地涌出品」でも、他方の国土から来た八恒河沙以上の菩薩たちが‘覚悟・誓願’を述べます。これも「見宝塔品」に於いての仏たちの要請に答えたものでしょう。
「もし世尊がお許しくださるならば、わたしたちも‘また’、世尊よ、如来が入滅されたのちに、かのサハー世界において、この経説を宣揚し、読誦し、書写し、供養しましょう。」(岩本訳)
‘わたしたちもまた’の‘また’は、「勧持品」での菩薩たちの誓願と同様に、という意味でしょう。
「もし世尊が私どもにお許しくださいますならば、世尊よ、私どもも‘また’…」(松濤訳)
「もし世尊が私たちにお許しくださいますならば、世尊よ、私たちも‘また’…」(中村訳)
「もしも、世尊が私たちに許されるならば、世尊よ、私たちも‘また’…」(植木訳)
「従地涌出品」で、薬王・大楽説と二万の眷族、八十万憶那由他の菩薩、八恒河沙超の他方の菩薩たちの‘覚悟・誓願’が揃ったところで、どんでん返しが起こり、結局は彼らに『法華経』の付嘱は許されなかった。
そして、付嘱の相手として用意されていた、地涌菩薩の登場となるわけです。
付嘱の儀式が「神力品」と「嘱累品」とで二回あるという天台の主張は、『法華経』からは読み取れませんし、むしろ不自然です。
まず、「従地涌出品」の後に、地涌菩薩以外の菩薩たちにも、付嘱が許されるようになる経緯など書かれておりませんし、それでは『法華経』自体が二種類の法華経を認めることになってしまいます。
「見宝塔品」、「勧持品」から「従地涌出品」までの流れは、一貫していると考えます。
むしろ、この間に「安楽行品」が入って内容が‘安楽行’になるほうが、割って入った感じになり、不自然ではないでしょうか。しかも、「安楽行品」の最初では、
「…世尊よ、これらの偉大な人である菩薩たちは、〔恐るべき〕後の時代、後の情況において、この法門をどのようにして説き明かすべきでありましょうか?」
‘これらの偉大な人である菩薩たち’とは「勧持品」で誓願を成した菩薩たちを指すと読み取れますが、これらの菩薩たちは、結局、付嘱されない人たちなのであって、この菩薩たちが後にどのように法門を説くか、などの説明は不要でしょう。
それでなくても「安楽行品」は、いわく付きの品です。
人種差別、女性差別、障害者差別、加えて、他ではみられない‘菩薩乗’語の使用、‘空’の詳細説明等々。
すいません、なかなか簡潔には書き切れませんでした。
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