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法華経について

127一字三礼:2006/05/30(火) 10:34:30
犀角独歩さん

難しい問題ですね。
拙いものですが、私の考えを少し述べさせていただきます。

> 不軽=上行という等式が成り立つことになります。

如来寿量品からの流れをみますと、分別‘功徳’品、随喜‘功徳’品、法師‘功徳’品と仏寿と法華経の‘功徳’について説く品(章)が続き、如来神力品、嘱累品という経の付嘱を説く2品の前に不軽品が入る形になっております。
その内容と構成から、「常不軽品第二十」は、法華経前半部(序品から法師品まで)と法華経後半部(見宝塔品から嘱累品まで)とを繋ぎ、嘱累品で法華経全体を統一的に締めくくるための役割があると考えます。
不軽品はこのような長行から始まります。

「爾の時に仏、得大勢菩薩摩訶薩に告げたまわく、汝今当に知るべし、若し比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の法華経を持たん者を、若し悪口・罵詈・誹謗することあらば、大なる罪報を獲んこと前に説く所の如し。」

この「若し悪口・罵詈・誹謗することあらば、大なる罪報を獲んこと前に説く所の如し。」の‘前に説く所’とは、実は譬喩品の偈文まで遡るのです。法華経後半部(本門)で、法華経前半部(迹門)に言及するのは、ここ一ヶ所だけです。
もうひとつ、常不軽菩薩の授記(迹門の行為)という菩薩行に縁って、六根清浄(本門の功徳)を得るというエピソードも、法華経の統一を考えてのことであろうと思います。ちなみに、「礼拝」が行であったかどうかも大きな問題ですが、岩本師の現代語訳では、「礼拝」の語は出てきません。

簡単になってしまいましたが、上記のような理由から、不軽品に出てくる常不軽菩薩は、法華の中でも特殊IDを持った、忍耐的な精神を持った通法華経的な菩薩像なのではないでしょうか。

対して地涌菩薩(上行菩薩)は、寿量釈尊の久遠の弟子として久遠実成と説く段に於いて、‘証明及び補処’が地涌菩薩の役割です。
そのため、一品二半が終わる分別功徳品の中盤で、‘如来の滅後’を再び説き始めるとその寿量仏の‘証明及び補処’の役割は当然なくなります。ですから、次に登場するのは、如来神力品の別付嘱(結要付嘱)だけとなります。

さて、以上のように考えますと、常不軽菩薩と上行菩薩(地涌菩薩)の役割の違いがはっきりしてくると思います。

常不軽菩薩は、本迹通じての通法華的な菩薩の理想像

上行菩薩は、寿量釈尊の証明・補処としての菩薩(一品二半に限る)

結論的には、不軽と上行は、等式で考えるべきではなく、役割が異なっていると考えますと、蓮祖が、受難の人‘法華経の行者’の立場で御書で述べられているときは、常不軽菩薩にご自身を重ねられる。
また、法華本門の独立、本門本尊、題目、本門戒壇建立の使命を述べられるときは、上行菩薩とご自身を重ねられたということではないでしょうか。


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