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法華経について

108一字三礼:2006/05/03(水) 21:03:18
すいません。107は投稿ミスです。

犀角独歩さん

> Saddharma-pundarika ではなく、Agraddharma であったのではないのかという思索

前半部では、一般的な意味として最高の法Agraddharmaなので説法場所にはさほど重要な意味を持ちませんが、後半部では奉ずる法門がSaddharma-pundarikaに換わるので、場所はGrdhrakutaでなければならなくなる、ということも仰っておりましたね。

> Saddharma-pundarika の題名のアイディアは、、、、これはわたしの飛躍かもしれません。

私も同様に受け取っております。
ただ、私は白(釈尊)紅(多宝)一対の蓮、天空と大地等の対比だけではないのではないかと推測しております。

その理由は、独歩さんもご紹介くださった多宝如来の特殊性にあります。

「其の仏本菩薩の道を行ぜし時、大誓願を作したまわく、若し我成仏して滅度の後、十方の国土に於て法華経を説く処あらば、我が塔廟是の経を聴かんが為の故に、其の前に涌現して、為に証明と作って、讃めて善哉といわん。」(見宝塔品第十一)

誓願・本願と言えば薬師如来の十二願、阿弥陀如来の四十八願等が代表的ですが、これらの仏の誓願の内容は、成道時に為すべきことであったり、その誓願が果たせなければ成道はしない、という類のもので方便品での釈尊の誓願もまた同様に成仏の時に誓願・本願が成就される(された)とするものです。
ところが多宝如来の誓願は、「滅度の後」に果たすというものでした。
在世中の事績をまったく残さない多宝如来は「滅度の後」に、その誓願の通りに続けているという設定です。

しかし、これは仏法上のタブーに抵触するものです。

「生まれた者達は、死を逃れる道がない。老いに達して、死ぬ。実に生ある者達の定めはこのとおりである。」(スッタニパータ)

多宝如来は、誓願を立てて、仏身を得、それを成就していることから、後の三身説に当て嵌めれば「報身」と言えるでしょう。すでに滅度していますのでこの後に再び滅度することも考えられない。これらのことから、阿弥陀如来とは異なり本当の「有始無終」の仏といえるでしょう。
このように特殊な仏格を有する仏は他経にもいないのではないでしょうか。

この特殊な仏格は、本門釈尊・本門法華経に対応するためのロジックでしょう。私は、本門釈尊・本門法華経も伝統的解釈以外に、実はもっと深い意味があるのではないか、と期待しております。

> 多宝仏はピラミッドのミイラ崇拝が伝わり、インドの大地母神と習合し、さらにメソポタミア起源であろうハス崇敬とも習合して、宝塔品となったなどという筋であったらこれは面白いと勝手な想像を膨らませました。

大変興味深い推論です。
それこそ松山師に話されれば、全講義日程がもう50年くらい延びるかもしれませんよ。


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