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法華経について
106
:
犀角独歩
:2006/05/03(水) 07:49:03
顕正居士さん
「世雄不可量」は、世雄の数が量り知れないこと、しかし、続く詩は、「所不能知」と同等の意味であるということですね。つまり、二句を併せれば、最初は無数の仏の数は量り知れない、さらにそれ故、その教法と特性も知ることは出来ないということなのですね。
梵本翻訳からのご教示、深く感謝申し上げます。
一字三礼さん
昨晩、ご投稿を拝読して、床に着いたせいか、寝ながら夢のなかで考えていました。
松山師は容易に結論をお述べにならないわけですが、最初に成立した方便品 Upayakausalya から 法師品 Dharmabhanaka の第一グループの法華経は、さらに詩偈の部分が先に成立したと見、ここでは Saddharma-pundarika ではなく、Agraddharma であったのではないのかという思索が窺えますね。
しかも、Saddharma-pundarika の題名のアイディアは、見宝塔品 Stupasamdarsana において、釈尊を白蓮 pundarika 多宝を紅蓮 padma の白紅一対の蓮が並び咲いた様が、その元になっていると言いたげと感じましたが、これはわたしの飛躍かも知れません。
ともかくも、第一グループでは、無数仏が想定され、無数仏の覚る智慧は、仏以外には決してわからないことで、故にその無数仏と会えるようになることを修行者の目標とするという想定もそこにあるというわけです。その目標は信解と訳されてしまう Adhimukti の本来の意味である志向、向上心という形で経典内で進めていると見ているように思えました。
また師は、この第一グループの法華経では、菩薩 Bodhi-sattva と対比する形で、むしろ法師 Dharmabhanaka を指向しているという形になっているというわけです。
以上の講説を聴聞して、あとに成立する寿量品 Thatagatayus-pramana を中心とする一仏思想を中心にする創作者は、この第一グループの法華経を知らずに別にこれをまとめたのか?という思いがあったのです。しかし、Dharmabhanaka の意味するところは法を説くというところにあるわけで、このような理想的な修行者は、後半では、漢訳で言えば、法師、不軽、そして、神力品の地涌菩薩という形で嘆じられていくわけです。無数仏に対して釈迦一仏、そこで一貫しているのは見仏です。第一グループの理想的修行者・法師は、地涌菩薩に置き換えられて理想化されています。ここに対比と進化が見られるわけで、となれば、後の創作者は第一グループの章集を知っていた、知っていたうえで、それを土台として、新たな創作を加えたのではないのかと新たな思いが生じました。
それにしても、羅什は、この神力品 Thatagataddy-abhisamskara の最尾で地涌菩薩を賛嘆する偈で「斯人行世間…是人於仏道 決定無有疑」と、菩薩を‘人’とすることには驚かされます。差詰め、学会であれば「人間主義」「ヒューマニズムの法華経」とでもやり出しそうな訳出です。菩薩から法師、法師から菩薩、その菩薩をして人と展開させた羅什の巧みさには今さらながら舌を巻きます。
もう一点。以上のことから脱線するのですが、一字三礼さんが多宝仏を、死んだところから始まる仏であることに着目されていることは、特記に値します。
あの場でお話しましたが、この段を「ミイラである多宝仏」と言った訳で説明した本に出くわしたことがあります。松山と3人でお話しているときは、直ちに思いつかなかったのですが、ミイラといえば、エジプトですが、彼の地ではミイラ崇拝というのはあったのでしょうか。ピラミッドがミイラを祀る建造物であるかどうか断定はもちろんできませんが、多宝仏はピラミッドのミイラ崇拝が伝わり、インドの大地母神と習合し、さらにメソポタミア起源であろうハス崇敬とも習合して、宝塔品となったなどという筋であったらこれは面白いと勝手な想像を膨らませました。もちろん、まったくの想像…、いや、まさに脱線に過ぎませんが。
【102の訂正】 誤:六惑示現/正:六或示現
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