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本尊と曼荼羅
48
:
独歩
:2002/04/10(水) 01:47
Libraさん:
いや、謝罪には及びません。こちらこそ、失礼があったとしたら、お詫びいたします。
「マジカルな…」というご説明、まったく賛同します。
ですから、その意味から法を教法ととらえる点には賛成なのです。
ただ、人法論という展開は必ずしも、そうなっていないではないかという、気持ちが私のほうにあるわけです。ですから、そのように解釈しなおすことはけっこうなことであると思います。
ところで六巻抄のスレッドで、少し記した『破日蓮義』、実は少なからず眩暈を覚えました。なかなか痛い指摘の連続であると思ったのです。
また、近日、天台資料をひっくり返していて、「こころのところが三身論のハードルだ」と思う点があります。阿弥陀、毘盧遮那(大日)に関する部分です。
法華六大部に限れば、阿弥陀は6箇所、毘盧遮那が10箇所、初期天台資料61では、阿弥陀が57、毘盧遮那(大日)が115の用例が確認できます。また、本覚資料としてデータベースとなっている『本理大綱集』『天台法華宗牛頭法門要纂』『漢光類聚』『本覺讚』『一帖抄』『八帖抄』では、阿弥陀が11、毘盧遮那(大日)が19の用例を見ます。
つまり、ここで論じられていく、三身というのは応身・釈迦、報身・阿弥陀、法身・毘盧遮那という三身論です。ところが聖人は、たとえば、六巻抄スレッドで挙げた『本理大綱集要文』では巧みに割愛されていますが、この書では阿弥陀仏ならず、「南無阿弥陀仏」が数回、登場しています。さらにこの書では自受用と阿弥陀であり、さらに阿弥陀の名を無量寿であることから、寿量(品)仏と同等を論じるにいたるわけです。つまり、自受用報身とは阿弥陀如来>本門教主釈尊という流れが看取できるわけです。
以前、記しことがありましたが、私は法華経の、取り分け寿量品で展開される久遠仏を、三身論で捌くことに躊躇があるのは以上のような事情を加味してのことでした。
しかし、それでも法華経寿量品は本門三身をもって捌くのは天台の常道です。しかし、ここにおいて、報身を表に立てれば、三身は報身に収斂されてしまい不思議一義を喪失してしまう、この点も気になる点でした。
また、「本尊」という語は、聖人においては、教学的な語法とは別に、土俗信仰的なありがたいものの尊称の如き語法も、実はされているわけで、この混乱を引きずっていると、「本来の日蓮本仏義の構造を分解し、正体を見ようとする試み」が霞んでしまうと私には思えるわけです。
何を厳格な意味で「本尊」と見なければいけないのかという基礎理論を提供することが、今日的には重要な課題ではないのかと私には思えるわけです。
以上のことから、種々、うるさいことを書いてしまったのですが、Libraさんをはじめ、皆さんにご理解をいただければ有り難く存ずるものです。
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