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本尊と曼荼羅

392犀角独歩:2005/05/16(月) 08:13:57

380への自己レスです。
先の箇条書きを更新します。

文永10年(1273) 本門釈尊・事行の南無妙法蓮華経(本尊抄)
文永11年(1274) 本門の本尊と四菩薩と戒壇と南無妙法蓮華経の五字(法華行者値難事)
        本門の本尊と戒壇と題目の五字(法華取要抄)
文永12年(1275) 一大秘法(曾谷入道殿許御書)
建治2年(1276) 本門の教主釈尊を本尊…本門の戒壇…南無妙法蓮華経(報恩抄)

真跡遺文から、「戒壇」で検索すると以下のとおりです。
わたしは三つの法門でいう「本門戒壇」は、所謂「理壇」、つまり、本尊安置の場所、道場、法華経を置くところが戒壇というところと考えてきました。しかし、実際に戒壇で検索してみると、蓮師の「戒壇」の用法は、実質的な建物を指しています。となれば、「本門戒壇」も同じと考えざるを得ないと思えます。この考えを蓮師が懐いていたとしたら、顕正居士さんがおっしゃるように、後続に託したと考えるか、身延隠居後、その考えを捨てたか、どちらかということになります。しかし、蓮師寂後、弟子達は、それぞれに「申状」を提出していくことから考えると、真跡遺文には見られないものの、その意志は終生、あったのかも知れません。しかし、あるいは、「申状」「奏状」の類は、先に記したように、今で言う宗教法人許可の範囲であるとすれば、戒壇建立とは無縁となります。この点は、上古の弟子の確実な資料を当たることで、ある程度、割り出せると思えます。

文永3年(1266)「象頭山戒壇を築き」法華題目抄
文永8年(1271)「小乗の戒壇を三所に建立せり」行敏訴状御会通
文永11年(1274)「本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字」法華行者値難事
文永11年(1274)「東寺の真言・法相・三論・華厳等は戒壇なき」
…………………「天台円頓の円定・円慧・円戒の戒壇立つべき」聖密房御書
…………………「本門の本尊と戒壇と題目の五字」法華取要抄
文永12年(1275)「天台の戒壇を建立」
…………………「南岳・天台も未だ弘めたまはざる円頓の戒壇を叡山に建立す」
…………………「吾が師伝教大師…円頓の大戒壇を叡山に建立」曽谷入道殿許御書
建治元年(1275)「法華経の広宣流布にはにたれども、いまだ円頓の戒壇を立てられず」
…………………「日本小乗の三処の戒壇」撰時抄
建治元年(1275)「大乗の戒壇はゆる(許)されしなり」三三蔵祈雨事
建治2年(1275)「大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇」
…………………「西国の観音寺の戒壇・東国下野の小野寺の戒壇・
………………… 中国大和国東大寺の戒壇・中国大和国東大寺の戒壇」
…………………「我が師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇」
…………………「叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給ひぬ」
…………………「宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに
………………… 上行等の四菩薩脇士となるべし。
………………… 二つには本門の戒壇。三つには日本乃至漢土月氏一閻浮提に
………………… 人ごとに有智無知をきらはず一同一同に他事をすてて
………………… 南無妙法蓮華経と唱ふべし。此事いまだひろまらず」報恩抄
建治3年(1277)「円頓の戒壇を叡山に建立」
…………………「法華経の円頓の大戒壇を叡山に建立」
…………………「或は東大寺の戒壇小乗の者なり」下山御消息
弘安元年(1278)「戒壇は以て前に同じ」三論宗御書
弘安3年(1280)「山門の得分たる大乗戒壇を奪ひ取り」諌暁八幡抄


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