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本尊と曼荼羅

365犀角独歩:2005/05/14(土) 08:15:09

真部さん、簡潔な整理、有り難うございました。

> 宗祖の遺文…宗祖と同じ…経典の成立…宗祖が立脚…天台…五時八教説

当板でいう、蓮師の素描とは、もちろん、そのような意味です。ですから、この考えには、もちろん、賛同します。

ただし、蓮師を無謬と考えるのではなく、その実像を、さらに真実・事実と対照し、日蓮信仰の‘パンドラの箱’を開けて、中を見ることも目的とします。この点を見なければ、蓮師の限界に留まってしまうことになるからです。もちろん、このことを強要しようとは思いません。ただ、わたしは素描された‘日蓮’を現状認識で晒し見、どの程度、使用可能かを考える作業は怠りません。その点に関して、考えがあれば書き、疑問があれば、問います。もちろん、それへのレスは各人の自由です。

> 私見…「十方諸仏」(大日・阿弥陀・薬師等)は「教主釈尊」の「所従」…郎従

わたしの最大の興味は、『注法華経』でしか確認できない「三身即一身」を、蓮師がどのようにとらえていたのかという点です。この成句は、ご承知のとおり、真跡遺文中では見られません。
しかしながら、『観心本尊抄』では「我等が己心の釈尊は五百塵点乃至所願の三身にして、無始の古仏也」というわけで、三身円満を意識されていることはもちろん知られます。(「所顕の三身にして無始の古仏」と富士門では言いますが、現宗研・所蔵データ真跡では「所願」)

真部さんが引用される限り、蓮師がいう三身観は報身・釈迦に多宝(大日?)、分身諸仏(含・阿弥陀)が所従という、いわば上下関係を以て包摂されることは、三身観として、かなり特異とわたしには映じます。三即一からは、もちろん、かけ離れています。その意味で、この点についてはさらに慎重に考えたいと思っているわけです。

故に、ここでご意見を窺ったわけです。これが先のわたしの質問の意図です。
重ねて問わせてください。蓮師の三身観は、報身(主)報応(所従)という上下関係、また、別仏発想として成り立っていますか。

> …多宝法身、釈迦報身、分身応身…お取りになられている

ええ、この点を明らかにするために問いを起こしたわけです。
いままで取り上げてきた各真跡遺文、また第18大漫荼羅の如きは、この説明で成り立ちます。
ところが、後期の大漫荼羅では金胎大日はもちろんのこと、分身諸仏を勧請から消えます。
となると、ここで応身が勧請されていないことになる、これでは三身が成り立たないではないか、というのが、わたしの疑問です。

そこでご意見を窺いたいわけです。
この勧請は応身の意図的削除とお考えになりますか。また、どのような理由であるとお考えですか。
少し言葉を換えれば、真跡遺文から窺える蓮師の、この意図はどのようなところにあるとお考えになりますか。

以下は質問ではありません。いわば弁明です。なお、わたしが「此土・釈迦(報身)、西・阿弥陀(応身)、東・多宝(法身)」と記したのは、漫荼羅図示はあくまで宝塔説法の図式化、つまり、南無妙法蓮華経の五字付属を示すことを意図したものであるという前提で記したことです。つまり多宝は証明、阿弥陀は娑婆衆生無縁の仏で、実際のところ、此土有縁深厚の仏は釈迦一仏に限るという蓮師の発想が窺えるからです。この場合、久遠一仏に統一という三身論的発想からは離れていないか、つまり、三身云々より、久遠一仏・付属弟子という師弟関係が主ではないのか、この点の実際はどうなのかを考えるために記したことです。


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