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本尊と曼荼羅
355
:
犀角独歩
:2005/05/13(金) 01:19:02
真部さん
経典の成立順番から言うと浄土(観経と浄土教とどちらが先か悩みますが)、次いで法華経、さらに真言(大日)ということでしょうか。
そうなりますと、法華における寿量は、当然、阿弥陀の無量寿にアイディアを得ていることになります。そのように考えると、阿弥陀と寿量仏の同一視から、個別化という階梯があったろうと想像されます。さて、そこで、多宝は?となりますが、その起源は、わたしにはまったくわかりませんが、しかし、多宝、大日では、やはり多宝が先行するのでしょうね。
異常のような発生と習合をなんだかんだと説明づけようとしたのが、種々の解釈でしょうが、わたしが興味を持つのは「所従」ということです。これは複数の存在の上下関係を意味する言葉ですから、決定王如来がなにを指すかは、置くとしても、三種の仏(阿弥陀・釈迦・大日)のそれぞれの別の存在として、その上下を決めようとした概念であるということになります。つまり、此土・釈迦(報身)、西・阿弥陀(応身)、東・多宝(法身)です。この多宝が仮に大日とのちに解釈されるようになったとして、ここでは、三身のなか、法身を優として、他二身を所従(劣)という蓮師のコンセプトがあることが窺えることになります。
では、そうなると、それに先んじる本尊抄の「三身所顕無始古仏」という一体観を思わせる記述との整合性は、どうなるのでしょうか。
また、阿弥陀(西・無量)は重要なコンセプトとなっていながら、漫荼羅図示にはまったく顕れません。この点はどうでしょうか。
以上の点、どのようにお考えになられますか。
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