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本尊と曼荼羅

321犀角独歩:2005/05/10(火) 23:35:58

真部さん、なかなか興味深い講釈のご紹介、有り難うございます。
なるほど、こうやって摂取されていったのか、という思いで拝読しました。

真部さんも当然、お読みなっておられると思いますが、天台の初期文献を読むと大日は出てきませんね。これは天台の時代にはまだ創作流布されていなかったことを物語るのでしょう。
当時の仏身論で三身は先に顕正居士さんがご紹介くださった形であったのでしょう。

しかし、その後の真言の隆盛は看過できないものになる。そこで多宝法身は大日法身と同等視されるようになったのでしょうか。ここら辺のところを証明できる資料を揃えていこうと思っています。なお、

> 無量寿即多宝

この点については、大いに了承できません。無量寿とは阿弥陀の漢訳であって、多宝ではないと思います。五百塵点成道で菩薩道の結果得た寿量本仏の寿命を語るものです。まあ、そんな意味から言えば、多宝も無量寿を得ていても当然、おかしくはないのですが、無量寿=阿弥陀、寿量=釈迦、そして、多宝も無量寿で三身で整合性が採れるのでしょうか。

法華経の最大の主張は、結局、この点で、菩薩道の結果得た仏は無量の寿命を得られる、このことを端的に記すのは、もちろん、寿量品ですが、常不敬の物語も同じコンセプトに基づいていますね。

しかし、だからといって、当の主役の釈尊、また、無量寿の名を持ち、さらに法華経にも登場する阿弥陀を差し置いて、多宝に配当する根拠がわかりません。

まして、「命と申す物は・一切の財の中・第一の財なり」との分との脈絡は証し得ないのであって、この点は頷けるものではありませんでした。

なお、亨師模写は、身延曽存、山中師が先にわたしが紹介した先哲二巻十六丁でいう漫荼羅と同じでしょうか。


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