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本尊と曼荼羅

320真部:2005/05/10(火) 23:24:01

茂田井師の「観心本尊抄研究序説」P47、58−59から引用致します。
「本尊とは何を意味するものであろうか。また、それは何物であろうか。日蓮宗には由来本尊に関する論議が盛んである。その問題の中心は、本尊の実体は「人格的」のものであるか、「法格的」のものであるかという本質論と、その形式は「大曼荼羅」式か或いは「一尊四士」式かという形態論である。これはもちろん、両者何れも関連し合っていて、切離した別個の問題とすることはできない。が、こういうものが問題となる已前のもの、いうならば、信仰として「本尊なるもの」が要請される基底にあるもの、また、要請そのものの本質、そういうものが問題とされていないのは不思議である。 中略

すなわち、原理性から一転して形相性へ移行する聖人の信仰的Visionが描かれたものといえるであろう。本尊抄擱筆後、約百日を過ぎた(文永十年には閏五月があった)七月八日に図顕されたといういわゆる「佐渡始顕の大曼荼羅」はこのVisionが書かれたものである。この文段には「曼荼羅」の語がないが、八品に亘る相貌を現実の信仰的ヴィジョンとして有つた聖人にしてみれば、そのヴィジョンがそのまま大マンダラであることは言及するまでもないことであろう。それは「本尊」として仰がれる尊形であり、娑婆即寂光浄土として描かれた世界平和の理想的ヴィジョンでもあったのである。 

かくのごとく、一念三千が真実に成就される決定的瞬間(原理性)が時間的にも空間的にも絶対超出の相貌(形相性)を取るとき、その純粋性は抽出されて「寿量仏」といわれ、「本門寿量品本尊並四大菩薩」と称せられるのである。 中略

「一尊四士論」の論理的根底はここにあるであろう。…」

茂田井師、塩田師の御説のかつてな引用をお詫び申し上げます。


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