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本尊と曼荼羅
316
:
真部
:2005/05/10(火) 21:47:04
独歩さん
報恩・取要の大日について引用させて頂きます。
茂田井師の「観心本尊抄研究序説」P62−63
「…塔中の釈迦牟尼仏によって久遠の一大円仏と象徴化された本門の教主釈尊は、その決定的瞬間には多宝仏をも所従とするものであることは遺文に明瞭である。すなわち、
大日如来・阿弥陀如来・薬師如来等・尽十方諸仏・我等本師・教主釈尊・所従等也。
天月・万水浮・是也。
華厳経・十方台上・毘廬遮那、大日経・金剛頂経・両界大日如来・
宝塔品多宝如来・左右・脇士也。
例・如・世王・両臣。
此・多宝仏・寿量品教主釈尊・所従也。 「法華取要抄」
月氏には教主釈尊、宝塔品にして、一切の仏をあつめさせたまいて・大地の上に居せしめ、
大日如来計り宝塔の中の南の下座にすへ奉りて、教主釈尊は北の上座につかせたまう。
この大日如来は・大日経の胎蔵界の大日、金剛頂経の金剛界の大日の主君なり。
両部の大日如来を郎従等と定めたる多宝仏の上座に・教主釈尊居せさせたまう。「報恩抄」
等の文である。
「報恩抄」は・まだ発迹顕本されない宝塔品の立場で・その座配の差異を述べたものであるが、その当分の立場でさえ、多宝仏は釈尊の下位についている。
それが・ひとたび開迹顕本された瞬間は、諸仏みな・釈尊の所従であって、「法華取要抄」にいうごとく「この多宝仏も・寿量品の教主釈尊の所従」なのである。
これはすでに「開目抄」で一念三千の原理的立場から本尊の主体性を論じた前出の文例にも明らかで、彼の書が本尊抄の依義判文に当たることまことに明瞭である。
寿量の一品の大切なる・これなり。 中略
この過去常・顕る時、諸仏皆・釈尊の分身なり。
爾前・迹門の時は・諸仏・釈尊に肩を並べて各修各行の仏。
かるがゆへに・諸仏を本尊とする者・釈尊等を下す。 中略
一切経の中に・この寿量品ましまさずば、天無日月・国無大王・山河無珠・人に神のなからんがごとくしてあるべきを、
華厳・真言等の權宗の智者と・をぼしき・澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往・權宗の人々、且つは自らの依経を讃歎せんために、
或云、華厳経の教主は報身、法華経は応身。
或云、法華寿量品の仏は・無明の辺域、大日経の仏は・明の分位等云々。 中略
この…「開目抄」の文は、やがて前出の「これみな本尊に迷へり、…寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。…」の文に連なって、本尊抄の本尊叙述の前提となるのである。中略
これらの文を「本尊抄」「取要抄」「報恩抄」等の文と比較対照すれば、聖人の本尊観の奈辺にあるかは・思い半ばにすぐるものがあろう。」と。
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