[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
|
メール
|
1-
101-
201-
301-
401-
501-
601-
701-
この機能を使うにはJavaScriptを有効にしてください
|
本尊と曼荼羅
272
:
犀角独歩
:2005/05/08(日) 11:57:57
265 愚鈍凡夫さん、そうであろうと思います。
266 真部さん、関連遺文のご呈示、有り難うございます。
267さん、できたら、何かHNをお決めになってください。なかなか、興味深いご指摘を受け、議論を続けたいと思うものですから。
> 諸仏はすべて五百塵点劫成道の教主釈尊の所従
ええ、このような統一を論じていますね。
> 多宝如来が法身如来
これはまったくそのとおりであろうと思います。顕正居士さんがご提示くださった文句とも、もちろん、一致します。ここで天台・文句該当の三身にない大日につき、脇士・郎従としながら法身・多宝の配下する点が、実に周到であるとわたしには思えます。
259の図をもう少し正確に記すと
<上座・北>本尊・本門教主釈尊 ― 報身・釈迦/法身・多宝/応身・諸仏
……………脇士・四菩薩……… ― (釈迦の)四菩薩/(多宝の)両部・大日
<下座・南>(主)大日
ということであろうと思います。
多宝=大日という御説ですが、わたしは159に記しましたが、この下座の位置は「日蓮」と一致しています。そこで、山川説、不動・愛染感見記を考え併せると、むしろ、大日=(日蓮)花押ということを暗示しているのではないのか、と思えるのですが、これはもちろん、断定ではありません。
ただし、「日蓮花押」の脇士が、では、不動・愛染かというと、そうではなく、宝塔に凝す記述は一尊四士の教義的な説明であり、こちらでは不動・愛染の勧請はしないというのが蓮師の考えで、しかし、漫荼羅の場合、南無妙法蓮華経裏一念三千=宝珠の左右の不動・愛染という宝珠曼陀羅に着想を得るのが字像漫荼羅のほうではないのか、意義の相違を考えるわけです。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板