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本尊と曼荼羅
16
:
独歩
:2002/04/07(日) 09:29
問答名人さん:
横レス失礼します。
ここのところ、本尊と曼荼羅の聖人の語法について、やや議論になっています。これはこれで実に有効な議論だとは思うのですが、まず私が明確にする必要があると思うのは、富士門における「本尊」語の使用という点であると思うわけです。
本尊=曼荼羅という場合、ともかく曼荼羅も本尊を表わそうとしているものであるから、同等に見なしてよいという基本的な了解事項があると思うわけです。そこで言われる本尊とは当然、仏教ですから、本尊は仏、これも決まりごとです。この段階で本尊と曼荼羅、まあ言い方に多少の出入があっても大きな問題ではないと思うわけです。
けれど、この仏をどう見るのかという点、これこそが最も重要な点ですね。
私が本尊と曼荼羅を敢えて厳格に分けて考えるべきであると言うのは、つまり、石山で言う本尊が日蓮とされ、さらに人法一箇とまで、言われるからです。つまり、ここでは本尊が久遠実成釈尊から日蓮に代わってしまっている。そのうえで「御本尊様」と言われれば、「それは違う」。ここが、いちばん言いたいところであるわけです。
富士義の大好きな言い換えゲームで「御書に書かれている釈迦(釈尊)は全部、日蓮と読み返す」というのがありますでしょう。この考えが、まず間違いである点を明らかにするために、聖人の本尊抄を拠り所として、「本尊とは久遠五百塵点成道・教主釈尊」であるという大前提を、まずしっかりと押さえることが始めようということなのです。
「では、曼荼羅は」と言えば、聖人が法華経の身業読誦を畢えることになる佐渡前後において、たぶんご心中にまざまざと浮かび上がった壮大な心象を筆にとって表わさずにはおられなかった体感に基づいた図示なのであろうと思うのです。それはもちろん本尊・釈尊、そして、一念三千、なにより妙法蓮華経の五字をもって勘んがえられるところですから、本尊と言っても差し支えないのかもしれません。ただ、厳格に言えば、それまでの仏像・画像曼荼羅表現と違った、聖人にはじまるところであることは事実なのでしょう。ここで私は聖人の曼荼羅図示という新たな展開のその時と、現代の感覚を混同してはいけないのだと思うわけです。
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