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697犀角独歩:2006/05/29(月) 19:20:01

昨日のオフ会の、彰往考来さんの発表は日常の本尊は、文字通り、書写であり、その原本を探るというものでした。

この研究を通じて、改めて「書写」ということを考えさせられました。
質問の段階で、「では、石山の歴代の本尊はどうか」という点について、参加者通じて、原本となったものがないのではないかということで一致したわけです。

日顕さんでしたか、「奉書写之」の‘之’は「戒壇本尊」を指すということでした。ところが、実際は、この彫刻と歴代の書写本尊が違っていることは既に話し合った点でした。また、歴代の本尊は、その座配が一様ではないわけで、もし、特定の、たとえば、彫刻を写したのであれば、みな同じであって然るべきですが、実際は、そうなっていません。さらに日興と日目では、その形式が違っていたり、上古と中世から近代では違っている点なども、既に話し合ったことでした。

このような疑義に対して、「書写は内証を写す」などといった反論もなされたわけですが、ならば、内証とは何かという説明が必須であるけれど、この点は語れないわけでした。

わたしとしては、これら検証に当たり、資料とできるのが、興風談所や、石山系のものには不満があります。また、資料の使用に当たり、彼等の解釈がこびり付いた形で伝聞される点は、かなり危険を感じます。他の例でいえば、示書や、条々事などが典型で、その他、考証についても、わたしは石山圏のものは決して手放しで採用しない注意を払っています。そもそも、彫刻の真偽も見極められず、日蓮本仏論などの過悪に何ら注意を払っていない古文書分析とはいったい何なのかという疑問があるからです。

やや話はずれましたが、彰往考来さんの偏差値を活用した分析は、門下書写本尊を考えるうえで必須の方法となるのでしょうが、わたしは、どうも苦手なことに属します。その意味から、研究をさらに参考にさせていただこうと思った次第です。


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