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277
:
犀角独歩
:2002/11/09(土) 09:49
今から四半世紀前の仏教学は、上述の岩本師が指摘したような「僧学」であった点は否めません。
ところで、この僧学と言われた似非学問的アプローチは、学問と宗学の整合性を無理矢理求め、自宗護教的言い訳に終始する点で実に見苦しいものでした。この点をみかんさんは仰ったのでしょう。
しかし、その後の学問の発展は、宗学の肯定できる範囲を遂に超えていくことになるわけです。いわば花野師の言う如く「ただの信の学」と見なさざるを得ないことが明らかになっていくわけです。
ここで僧学者が採った態度は、まさに二重思考( Double thinking )であったわけです。つまり、学問と宗学を分けて、別々に扱うという逃避行動です。
学問は学問、宗学は宗学というわけです。これによって、僧学者は宗派に遠慮せずに自由に学問の発展に寄与できるようになったわけです。学問面から見れば、これはたいへんにけっこうなことでした。
けれど、これは宗学は学問に否定されるものであることが明らかになった瞬間でもあったのでしょう。
富士宗学でいえば、まさにここ100年の学問的成果に絶えられないものであることは残念ながら言うまでもないのです。「ただの信の学」なのでしょう。
日蓮が『開目抄』に
「智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべし」
といった大難は、まさにいま当たっていると私は考えています。
しかし、そうであれば、その事実を率直に寺檀に示すという断腸の決断をすることが潔いところでしょう。
けれど、実際は信者には100年前に疑問を呈された学問的成果に目をくれさせないようにし、恰も自宗学は学問を上回る唯一絶対なものであるという幻想を懐かせ、せっせと金銭と労働力をかき集め続けているわけです。この具体例が石山であれば戒壇之漫荼羅参拝(内拝などとはとても言えない)の登山勧誘であり、創価学会では携帯本尊、顕正会では国立戒壇論です。
人集め、金儲けのためであるならば、事実を隠す、この肯定理論が二重思考にあると、私は思うから、花野師に向けて、辛辣な言葉を私は吐いたのです。
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