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犀角独歩
:2002/11/09(土) 09:10
【僧学】
―岩本裕著 世界の宗教7『布施と救済』淡交社から抜粋―
これは耳新しい言葉であろう。もちろん、辞書にも見あたらない。というのも、不思議はない。著者の新造語であるからである。
著者は昭和39年11月27日から同年12月11日までの間に6回にわたって「中外日報」紙上に『仏教学を批判する』という一文を書き、現在のわが国の仏教学が抱きかかえている種々の問題をえぐり出してみたのであるが、そのなかで「僧学」という言葉を用いたのである。と言う意味はつぎのようである。
わが国仏教学という学問が存在する。そして、仏教学者なるものがいる。ところが、いわゆる仏教学者の九九パーセントまでが僧侶である。したがって、僧侶なるがゆえに先入観があり、また護教的でないまでも護身的ならざるをえないのではないか。いいかえると、僧侶なるがゆえに身分上の制約があるのではないか。とすれば、そこに仏教の科学的研究がはたしてあるだろうか。ここに疑問を発したとき、僧侶である仏教学者の研究する仏教学なるものは、たといそこに文献的方法を援用したり歴史的考察を加えたりしても、結局それは学問研究の鬘か仮面をかぶった鵺(ぬえ)的な存在にすぎないと言わざるをえないのであろう。そこで、著者はそういう学問をしている人びとすなわち僧侶出身のいわゆる仏教学者を「僧学」と呼んだのである。
……著者は昭和四十年に『極楽と地獄』という小著を発表した。当時流行の新書版の小著ではあるが、学術的に重大な問題を二三提議しておいた。「浄土」という言葉の変遷など、それである。しかし、いわゆる仏教学者による解答ないしは論評はまだ得られない。
また、著者は最近に淡交社から『観音の表情』という書を出し、現世利益の仏としての観音の成立と展開について、今日までいわゆる仏教学者が触れようとしなかった点を論じた。「讀賣新聞」などには「観音は男か女か」の問題について著者が論じたところを中心に好意的な紹介が見られた。また、昭和四十四年二月二十五日の「赤旗」紙上には、美術評論家の林文雄氏の筆で、
「岩本氏のこの研究はまだ美術史的にふみこんでいないけれども……古代東洋諸民族の精神、思想、願望の反映としての観音を真に芸術史的な光で見なおすためにの学問的基礎工事の一つが、ここに果たされていることを、高く評価したい。」
と、著者が意図したところを十分に理解した紹介が載せられた。著者は一人の学究として褒め言葉だけを期待するものではない。また、わが学会によく見られるような、あたらずさわらずの紹介に満足する者でもない。誤りは誤りとし、疑問は疑問として指摘し、論議すべきことは論議してこそ、学問の発展に寄与しうると信じている。この意味において、仏教学者の率直な意見を期待しても、けっして無理難題をふきかけることにはならないであろうと思う。それとも、著者の小著のごときは歯牙にかける価値のないものなのだろうか。それならばそれで、その旨を指摘してもらいたいと切望せずにはいられない。
「学者には所信に基づいてのそれぞれの見解があっていいはずであり、学的良心に基づく活発な発言はやがてこれからの仏教研究を必ず前進させよう。」
とは、吉田紹欽氏が著者の『仏教入門』に対し「東京新聞」(昭和39年3月25日)に載せられた批評紹介の一節であるが、いわゆる仏教学者の一人一人がこのような考えで所見を発表し、互いに切磋琢磨するとき仏教学の進歩は見るべきものがあろう。現在のように、仏教は科学的研究と宗学を混淆し、批評が発達していない学会の現状が、いわゆる大乗仏教の仏教との間において日常茶飯事として容認されているとすれば、それは大乗仏教の精神を亡失したものと言えよう。大乗仏教成立の背景には、……精神溌剌とした精神があったことを忘れてはならない(P234)
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