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オフ会 開催案内
266
:
犀角独歩
:2002/11/07(木) 16:55
無徳さん、こんにちは。
講座、いらしておりませんでしたね。
ですから、レジュメを1通、無徳さん用に貰ってきました(笑)
あとでお送りします。内容としては面白いものでしたよ。
さて、このレジュメの中で花野師は<私見>とし、
「教団の中でしか通用しない論理や定義をもって述べれば、“それはただの信仰の学(宗学)でしかない”」
と言っているわけです。これは道元門下に向けた言葉ですが、奪って言われれば、もちろん、石山にも当て嵌まることです。
要するに花野師からすれば、現石山教学(宗学)は「ただの信仰の学」であるということになります。石山僧俗は花野師の成果を、宗学を肯定、補強するものと善意にとらえようとしているようですが、本人からすれば、そんなものは“ただの信仰の学”だというわけです。お商売で、戒壇之漫荼羅・日蓮本仏・唯受一人に同調して見せているのに過ぎない、つまり石山向けと他宗向けの二つの顔を使い分けているわけです。私はそれを二重人格と言ったのです。
昨日の話で興味深かったのは、本覚思想を『大乗起信論』に求める袴谷理論は独りよがりな迷惑な理論であるそうで、本覚・本迹は中国から始まると言っていた点です。要するに、インドの釈尊には戻れないとはっきりと言明していました。仏教は時代の中で展開し、発展、変化したものであるというのです。
ここに日蓮の三国四師論は放棄されていると私は見ます。
また、中古天台本覚思想恵心流口伝法門への言及もあり、本覚思想の基盤をそこに求めています。日蓮と本覚思想の親和性を求めようとはしているものの、既に日蓮を本覚思想の影響を受けた一人に数えるに過ぎず、こうなっては日蓮本仏は空文化するでしょう。
それらの点を“ただの信仰の学”から離れて、学者として論ずることを、聖人であれば、厳しく嫌うであろうと私には思えるわけです。「謂徒才能」の四文字を以て糾弾されるのではないでしょうか。
学者としての顔では、現石山義の「折伏」をなさないその有様は、現代の仏教学会で通用しても、日蓮は許すことはしないでしょう。その点について記したことです。
もちろん、花野師の学問的な成果は評価します。しかし、そこには“ただの信仰の学”と卑下された宗学と仏教学の整合性は求められません。これは日蓮の弟子、現石山義の折伏の放棄と私は見做したわけです。
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