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続 大石寺問題提起

18犀角独歩:2003/01/05(日) 09:50

> 17

ええ、そのとおりですね。
この学頭の任免権は興師がお持ちになっていたように思えます。
で、これがなにか?

例えば、住職・血脈相承が関連のあるものであるとなると、では、興師が離山をした段階で相承の効力は切れたことになってしまいませんか。また、聖人が血脈相承を受けた=住職であるのに、それを放棄してしまうというのは師敵対ということになりませんか。
もちろん、これは相承=住職という石山居士さんの主張に基づいた場合です。

このように言えば、また原書を出されますでしょうか。

「身延沢を罷り出で候事面目なさ本意なさ申し尽くし難く候えども、打ち還し打ち還し案じ候えばいずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候わん事こそ、詮にて候え」

ここで唯授一人という筋で考えるのであれば、血脈相承・延山住持・聖人御義の三つが糸でつながるのかどうかということですね。石山教学では、ここら辺を関連づけて考えるわけですが、この関連づけ恣意的と映じます。

まず弟子という点では興師本人が「定弟子六人事(不次第)」の選定を記しています。
これは信頼できる資料です。
しかし、唯授一人という相伝譜は見えません。

第二に、石山でいう久遠寺は美化され続けていませんか。
要するに蓮祖は久遠寺を円師から寄進され、その初代住職?となり、そのあとを興師に継承したというシナリオが、です。しかし、実際、このストーリーは合っているのでしょうか。

久遠寺といえば、大した寺院に聞こえますが、晩年に建てられた小さな草庵一つ。大切なものはそれより、宗廟(墓)随身佛と註法華経のほうであったろうというのは、残る文献でその記述の多寡から測れますね。(随身佛に関する議論は繁くなりますの、後に譲ります)

いまで言う前科者であった日蓮を、領内に招き入れ、庵も拵え住まわせた、しかし、その場所はあくまで地頭の所有であったろうというのが問答名人さんと交わしてきたところです。

当の聖人が寂したあと、訪れる人もなく、さらに墓輪番すら守られなかった。そこに円師、初発心の興師が登ってきたのでm円師は喜んだというのが、先に引用された弘安7年の状のように見えます。しかし、これが血脈相承と係ることを示す証拠はありません。

さらに原書に見られる離山後、立てるという「聖人御義」が血脈相承に係ることを示す証拠もないでしょう。

この三つをつなぐ、証拠がない限り、唯授一人血脈を論じることには慎重でなければならないと私は思うわけです。

なにより、日蓮真跡中「血脈相承」なる成句は一編たりも見えず、また「唯授一人」という成句も同様です。この事実からすれば、日蓮その人に血脈相承、あるいは唯授一人という考え方があったとする証拠すらないわけです。

しかし、石山居士さんは久遠寺住職=血脈相承=唯授一人と主張されるわけですが、これはいかなる明証によるのか、というのがいまの議論です。明証は如何ばかりでしょうか。


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