したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

日蓮聖人と真言密教

9川蝉:2002/06/28(金) 15:38
6 : いちりん さんへ。
今日は。

「久遠釈尊が根本仏で諸仏は分身仏」という思想は宗祖が勝手に考えたものでなく、法華経宝塔品自体にある思想なのです。
いちりんさんからすると、法華経も「釈尊と諸仏と優劣をつけている」と云うことになりますね。

法華経に、釈尊が久遠本仏であると説いてあるので、釈尊の名の下に本仏を仰き、諸仏は分身仏として仰がなければならないことになります。
念仏宗では久遠釈尊を信仰することを否定し、阿弥陀如来この救済主だと説くので、根本の救済主である釈尊をないがしろにすることは許されないことだと宗祖は主張したのです。

この宗祖の主張に対して「釈尊と諸仏と優劣をつけている」ものと受け取られると云うのでは、それも仕方有りませんね。

迹(分身)を通して本(本仏)を知ると云う思想があって、迹仏即本仏と見るわけです。ですから本体的には、分身と本仏に優劣は見ていないことになります。分身諸仏の本当の正体を久遠釈尊として仰ぐ思想は、多神教でありながら一神教、一神教でありながら多神教と云う思想ですね。

方便品には五仏同道が説かれていますね。諸仏は教導手順も悟りも皆同等であると思想です。
化城喩品にも、十六王子が現在十方に仏となっているが、その悟りは同等としていることが分かります。

御存知のように、法華経前半と他経においては、諸仏はそれぞれ修行をして仏になったので並列的個別的な関係であり、それぞれ受け持ちの世界を別にしていると云う事になっていますね。

たとへば、悟りは同等であるが受け持つ世界が異なっていて、阿弥陀如来は極楽浄土の受け持ち、釈尊は娑婆世界の受け持ちとされています。

娑婆世界の衆生は釈尊を教導主として仰ぐべきだと云う思想があるわけです。

法華経化城喩品でも、人々は、教縁を結んだ王子と生々世々生まれ遭わせ、その浄土の衆生となっている。
釈尊の前身の第十六番目の王子と教縁を結んだ人々は、この娑婆世界において釈尊の教導を受けているのであると説いて、釈尊が娑婆世界の教主であること、我々は遠い過去より釈尊と教縁を結んでいる事を教示しています。

こうした仏教の通念上からも、娑婆世界の衆生は釈尊を教主として仰がなければならないのに、釈尊を礼拝することを礼拝雑行と否定し、阿弥陀如来一仏のみを信仰せしめる念仏宗に対して、釈尊を信仰しなければいけないと宗祖は主張したわけです。
阿弥陀如来は劣っている仏だと批判したのではないのです。

しかし、この「釈尊の方が縁の深い仏だと」選ぶ考えも「釈尊と諸仏と優劣をつけている」ものと、もしも云われるのであれば、それも仕方有りませんね。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板