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日蓮聖人と真言密教

55川蝉:2002/07/11(木) 16:07
51 :52 : 犀角独歩 さんへ。

>西方仏の萌芽が初期にあったという点に関してはよいとしても、
>それが、なぜ、阿弥陀如来で、本流などといえるのかということ
>です。

誤解のないように云っておきますが、私は「阿弥陀如来は仏陀観発展の本流」などとは云っていません。そんなことは容認できない立場です。
藤田教授が「阿弥陀思想は仏陀観の発展上に生じたもので、外来思想はやはり傍流的影響と考えるべきであろう」との意を表そうとした文章表現ではなく、藤田教授が「阿弥陀如来が仏陀観の一番正しいもの」と云わんとした文章であったとしても、今の話題は内部起源説・外来起源説についてですから、藤田教授の「阿弥陀如来が仏陀観の本流である」と云う考えの是非についての議論は別話題でしょう。
大乗の初期に十方仏の思想が有ったのであるから、西方仏の萌芽が大乗の初期にあったと思われると云うのが私の意見です。

>シャキャムニ以外の、西の果ての仏の許へ往生する信仰などとい
>うものが、初期仏教にあったなどといえるのかとい

大乗の仏陀観進展の上に、諸仏の一つとして西方阿弥陀仏が居るという考えが現れたのですから、十方の仏についてさえ言及しない初期仏教に有るわけはないですね。

仏陀観の進展上、十方の仏の仏の中に、西方仏が居て完成された浄土があると云う考えが芽生えれば、付随的に、苦の娑婆を離れ往生したいと云う宗教心理は自ずと生じることでしょう。

苦しんでいる人間が理想国土を想像し、そこに行きたいと願うこと、また絶対的な救済主を想像し、救いを願う事は、別に外来思想を参考にしなくとも、人間の宗教的心理として、自然と考え及ぶ事でないでしょうか。

岩本博士は「仏を光明によって荘厳する思想は初期仏教に無い。光明によって仏の特性を語るのは、外来の光明思想によっていると考えられる」と云うような見解でしたね。
前のコメントで挙げたように、原始経典の「スッタニパータ」の中に仏を光りをもって讃える文があるので、無量光と云う形容は外来思想を借らなくても、その萌芽はあると云えると書いたわけです。
私の
「 仏舎利塔礼拝はその始めはともかく、単に入滅された釈尊を偲ぶだけではなく、礼拝する者の前に釈尊が現前し、苦悩を救ってくれると云う意識のもとに仏塔中心に信仰し、それが仏寿無量思想を含む大乗興起の大きな要因に成っているのでは。」
に対して、
「これは一面の見方ではないでしょうか。」
との事ですが、少なくとも「仏塔礼拝は単に入滅された釈尊を偲ぶだけではなく、礼拝する者の前に釈尊が現前し、苦悩を救ってくれると云う意識のもとに仏塔中心に信仰した」ことは否定できないのではないですか。
仏塔礼拝に、入滅しても釈尊は存在する、即ち仏寿無量と考える萌芽が(法華経の久遠仏思想もこの萌芽の進展と云えますね)見えると云う見解は否定できないと思います。

大乗と称される思想運動の実姿や、法華経成立時期の仏塔崇拝形態は、今の論題と直接関係ないでしょう。
(続く)


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