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日蓮聖人と真言密教

52犀角独歩:2002/07/11(木) 03:58

―51からつづく―

> 浄土宗系統の学者ですから「阿弥陀思想が仏教の本流」と表現しているのしょうね。

最大のポイントは、ここでしょう。なぜ浄土系の学者であれば阿弥陀と本流といってよいのでしょうか。これはまったく学問と信仰を混同したあってはならぬことであると私は思います。

学問は科学的に確実な証拠の積み重ねによって事実を明らかにするものでしょう。その手法にあるように見せながら、浄土系であれば、浄土を本流といってよいなどということはあるはずはありません。

この藤田師の姿勢は、まさに岩本師が“僧学”と批判した学問と信仰の混同した端的な例としか見えません。

【僧学】

昭和39年11月27日から同年12月11日までの間に6回にわたって「中外日報」紙上に『仏教学を批判する』という一文を書き、現在のわが国の仏教学が抱きかかえている種々の問題をえぐり出してみたのであるが、そのなかで「僧学」という言葉を用いたのである。と言う意味はつぎのようである。

わが国仏教学という学問が存在する。そして、仏教学者なるものがいる。ところが、いわゆる仏教学者の九九パーセントまでが僧侶である。したがって、僧侶なるがゆえに先入観があり、また護教的でないまでも護身的ならざるをえないのではないか。いいかえると、僧侶なるがゆえに身分上の制約があるのではないか。とすれば、そこに仏教の科学的研究がはたしてあるだろうか。ここに疑問を発したとき、僧侶である仏教学者の研究する仏教学なるものは、たといそこに文献的方法を援用したり歴史的考察を加えたりしても、結局それは学問研究の鬘か仮面をかぶった鵺(ぬえ)的な存在にすぎないと言わざるをえないのであろう。そこで、著者はそういう学問をしている人びとすなわち僧侶出身のいわゆる仏教学者を「僧学」と呼んだのである。(『布施と救済』P234)


> 藤田教授が「阿弥陀思想が仏教の本流」と表現した意は「阿弥陀思想は仏陀観の発展上に生じたもので、外来思想はやはり傍流的影響と考えるべきであろう」との意を表そうとしたのだろう…

「阿弥陀思想は仏陀観の発展上に生じ」るのに、西方、極楽、絶対者による救済という、初期仏教にないものが生じた理由が説明されていないように私は感じるわけです。仏陀観は釈尊に帰せられるべきであって、他者である阿弥陀が発生した説明ではありません。それなのに、その阿弥陀をして「本流」などということは、まさに僧学の偏見と映ずるわけです。


> 外来思想はやはり傍流的影響と考えるべきであろう

これは、そうでしょう。これら信仰教団はファンダメンタリズムから脱却できているとは思えません。それが内部的であれば、外部的であれ、自己中心的に解釈し直して定着したものであれば、何事も傍系として扱おうとするのでは当然のことでしょう。

以下のようなページがあります。

インドの神と日本名対照表
http://www.ffortune.net/symbol/indo/sinwa/nihon.htm

なかなか簡潔にまとめたものであると感心しますが、インドに由来する30近い外来種の神仏で、日本まで届いたものを列挙しています。仏教に多くの外来種の思想が神仏として、取り入れられたことは紛れもない事実です。それなのに、独り阿弥陀如来ばかりは仏教教団内で発生したものであるとするのであれば、釈尊に係る説明を恰も阿弥陀如来の起源の如く論ずるのではなく、初期経典から現れる阿弥陀如来に関する記述をもって論ずるべきであると私は思うわけです。


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