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日蓮聖人と真言密教

30犀角独歩:2002/07/07(日) 07:02

ふらりと見に行きましたら、楽市楽座のほうでも同じようなスレッドが立っていたのですね。

釈迦=毘盧遮那仏=大日如来
http://www.ream.ais.ne.jp/~flower/hokke2/esbbs.cgi?acto=list2ch&no=1750&page=0&mode=all&f=new

マハー・バイローチャナ(偉大なる太陽→大日の訳は至当)、毘廬遮那、大日如来、薄伽梵(婆伽梵)、はてはOSHOのバグワン・シュリ・ラジニーシにまで話が及んでいます。すごいですね。

太陽信仰起源と見れば、アフロマズダ、あるいはミトラ。それが毘廬遮那、阿弥陀、大日如来と、仏教の釈尊以外の仏格と拝されるようになり、そして、また釈尊に収斂されるという歴史の流れがあるのでしょう。

私は三身論とか、他受・自受などと言った仏をいかに解釈するのかという教学は、実はナンセンスであると思うところがあります。そもそも、釈尊一仏にはじまる仏教が、その後、多くの仏が語られるようになる、混淆がそこに見られるのでしょう。ところが原点はお釈迦様だと言うことで、すべてをお釈迦様に束ねようとするという、混淆とその説明付け以上の意味を持たない気がするからです。

ところが教義は実に二次元的なものであるから、宗派教学になると、そもそも、それらが釈尊一代の説教にすべてあったという前提から始めることになるのでしょう。実際は釈尊の滅後500年以上もかけて、混淆と、その説明を繰り返してきた改竄のようなものを、いっさい、釈尊在世の50年で説明してしまっているということです。五時八教などと言われる教学がこれです。事実から見れば、こんな教学は何の意味もない、率直な言葉で言えば、嘘っぱちであるわけです。

それなのに、いまだに教学試験とかいうもののなかで、こんなことがもっともらしく出題され、受験者も一所懸命、勉強?しているわけです。すべて100年前に瓦解してしまったものであるにも拘わらず、いまだにそんなことをやって、人を集め、金を集め、ドグマを生成し続けているわけです。

そして、同じ祖師・日蓮、同じ本尊(戒壇の曼荼羅本尊)、同じ教学(寛師)を100年前に瓦解した教学で信じ込ませて、それぞれに争わせているというのが石山系グループの実態であるわけです。

ところが実際のところ、僧侶は大学で仏教学をやっているわけですから、自分たちの宗派教学が実際もう通用しなくなっていることは百も承知しているわけです。学術研究所をもっている教団は、仏教学者との連絡があるから、こちらもそんな教学が通用しないこともわかっている、それなのに、信者には、その100年前に通用しなくなった教学を、いまだに信じ込ませて、争わせている、「自分たちこそ、いちばん正しい」

私はこのような信者操作をする団体の在り方を本当にふざけていると思うわけです。

そんな実態を知るうえで、実際の歴史のうえで仏教がどう変化してきたか、どう解釈されてきたかを見るのに、毘廬遮那思想(太陽信仰の仏教への流入)を一つの手がかりに見てみるのはよいと思うわけです。


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