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日蓮聖人と真言密教

24川蝉:2002/07/06(土) 14:00
23 : 犀角独歩 さんへ。

岩本教授が
「梵本を歴史的順序で見ていくと、前期には光によって仏を荘厳するという発想はまったく仏教になかったといいます。通常は「黄金」による賛辞であったというのです。
初期の仏典では、ブッダを修飾するのに黄金で比喩することはあっても、光明で修飾することはない。初期の仏典を編述した上座部の仏教には、光明思想はなかったといっても誤りではない。」
等の旨を語って居るとのことですが、
初期の仏典である「スッタニパータ」には、黄金で比喩するより、光りで修飾している方が多いようです。

岩波文庫「ブッダのことば・スッタニパータ」
第一 蛇の章・178句
「今日われらは善い太陽を見、美しい暁に逢い、気もちよく起き上がった。激流をのり超え、煩悩の汚れのない覚った人にわれらは見えたからである」(37頁)

第二 小なる章348句
「風が密雲を払うように人(仏)が煩悩の汚れを払うのでなければ、全世界は覆われて暗黒となるであろう。光りある人々も輝かないであろう」(

第三 大いなる章・508句
「光輝ある人よ」
同550句
「大きく、端正で、光輝あり、道の群れの中にあって、太陽のように輝きます」(104頁)

第五 彼岸に至る道の章・1016句
「光りを放ちおわった太陽のような、円満になった十五夜の月のような目ざめた人(仏)を、アジタは見たのであった」(179頁)
同1136句
「光輝あり光明を放っています。」(198頁)

等の文があります。
他の原始経典を調べてないですが「スッタニパータ」では、黄金より光りで讃えている箇所の方が多いようです。

岩本教授の
「前期には光によって仏を荘厳するという発想はまったく仏教になかった」
と云う断定は、頷けません。
で、
「それが毘廬遮那、特に阿弥陀如来においては仏は光によって荘厳されるようになったという点を指摘しています。つまり、この二仏は、輸入ものである」
という岩本教授の推定も、荒っぽいものだと思っています。


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