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日蓮聖人と真言密教
23
:
犀角独歩
:2002/07/06(土) 11:35
川蝉さん:
> 伝教…不空三蔵が「毘廬遮那如来を報身…」
私の弱い伝教大師の著述の部分です。お示しいただき、有り難うございます。
しかし、不空の段階では、このようにあるわけですね。やはり、初期はこのようであったわけですね。
> 天台大師在世には大日経の翻訳は未だ
ええ、ここが仏教史のキーポイントであると思います。
天台大師は大日経を視野に入れていなかったと思います。ところが滅後、100年以降、急速に広まっていく、そこで法華(天台)宗としては、なんらかの教学的な対策、または影響を受けることになっていったのではないのかと予測しています。
> 妙楽大師の時には毘廬遮那の訳語・意味に就いて議論
なるほど。
> 伝教…三身思想が明確に示されている
ここで仰る三身の法身は大日となるのでしょうか。空海との交わりからも、そのような予想が立ちます。
> 阿含経では、教法を法身と見る思想があり、これが進展して大乗の三身仏思想になった
ええ。しかし、これはやや飛躍的な解釈であると思うのです。法は達磨として認識されていたわけですから、それを法身の起源であるというのは、あまりにも三身という“常識”から解釈がなされている嫌いがあるように思います。
> 三枝充悳教授が華厳経の説明…
うーん。同師の説は、一切を仏教内の出来事として捌こうとし過ぎているように思えます。
華厳経の“光”の記述についても、その起源を当然のように仏教内と考えていますね。私の好きな岩本師は、この光による仏の荘厳については極めて重要な指摘をしています。
つまり、梵本を歴史的順序で見ていくと、前期には光によって仏を荘厳するという発想はまったく仏教になかったといいます。通常は「黄金」による賛辞であったというのです。
初期の仏典では、ブッダを修飾するのに黄金で比喩することはあっても、光明で修飾することはない。初期の仏典を編述した上座部の仏教には、光明思想はなかったといっても誤りではない。上座部の分派に属する経典にはいま舎衛城の大僧院に滞在される「われわれの師」(ブッダ)は、純金の塊さながらで、精錬された黄金に似て、純金のように清らかである」と記しているが、また上座部の系統をひくセイロンやビルマの仏教では、仏像を黄金で飾りたてるのが普通である。……漢訳仏典の中に「ブッダの言葉あるいはその説いた教え」を金口というものがあるのは、この上座部における表現の残滓である。(『極楽と地獄』P84)
それが毘廬遮那、特に阿弥陀如来においては仏は光によって荘厳されるようになったという点を指摘しています。つまり、この二仏は、輸入ものであるという指摘です。しかし、三枝師の論の立て方は、なにかすべて仏教内での出来事のような論調になっているように思えます。また、真言を拠に据えた論の展開になっているようにも見えます。まあ、東大印哲卒、ミュンヘン大学で Dr.Phil.を受けた学者に対しては、身の程知らずの感想を記していますが(笑)
もっとも岩本師も引用書の裏書の著者紹介に「インドの古典語のその文献に通達した学者で、インドの説話文学に関しては世界的権威である。しかも、著者はインド古代史に深い関心と該博な知識を持つ学者としても有名で、彼の書くものはすべて広い視野と深い学殖の産物で読者を驚嘆させずにはおかない。今日わが国のインド学者で、彼ほどレパートリーの大きい学者は他にいないといってよい」というほどの逸材でしたが。
> …むしろ華厳経のような仏陀観から展開したもの…
なるほど。この予想は実に興味深く、そして、説得性がありますね。
天台思想を一瞥しても直ちに気づきますが、中国仏教というのは、やはり華厳教学が基礎になっていますね。先には三枝師にケチをつけるようなことを書いてしまいましたが、同師の、華厳経をの説明をもってこられる、川蝉さんはさすがに含蓄を感じます。
今後の思索の方向性を得られた気分です。まだ手つかずの伝教大師の著述の読破は今年後半の目標にしようと改めて思いました。
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