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日蓮聖人と真言密教
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犀角独歩
:2002/07/05(金) 11:01
○毘盧遮那と大日、報身と法身
日本仏教において、毘盧遮那はイコール大日如来である、大日は法身であるというのが一つの大前提となっていると思うのです。
ところが、そもそも初期天台においては「大日」という成句自体、使われていないわけです。そして、毘盧遮那といえば、これは釈尊を指す語であったわけです。つまり、毘盧遮那は大日に先行して、追って大日が混淆すると言っても過言ではない気がします。
法華経の成立は西暦1世紀頃、天台は6世紀の人で、大日という成句が使われるようになるのは、たぶん7、8世紀の頃ですね。バイロチャーナがいつごろ、仏教に混淆してくるのか、私はよくわからないのですが、大雑把に言えば、1世紀から6世紀ぐらいの間ということになるのでしょうか。法華経は初期大乗経典で、しかもそのなかに極楽・阿弥陀如来の名前が見られますから、浄土教のあとの成立と言うことになるのでしょう。いちりんさんが指摘されていたとおり、毘盧遮那は結経に見られるわけですが、私は、これは法華経の制作とは脈絡はないのではないのかと思っています。
いわゆる法身思想というのも、仏教に取り入れられていくのは、後期のことなのではないのかと思うわけです。6世紀の天台は法華経を三身、ひいては三即一でとらえるわけですが、実際のところ、その500年前、1世紀の法華経制作者は三身説などまったく念頭に置いてはいなかったように思えます。また、法身思想自体の影響も受けていたようには感じられません。あったのは、経典崇拝と久遠仏思想(後に報身説となる)ではなかったのでしょうか。
仏教が流布し、お釈迦様の地位が不動なものになった、けれど、他の宗教の中には永遠の尊体というのが他を圧倒し始めていた。そもそもバラモン思想は天(神)の崇拝ですから、人間として生まれたシャキャムニとは違い、不死の存在であったわけでしょう。しかし、仏教は死んだ釈尊の遺骨(舎利)を祀ることに腐心していたわけです。これは不死の尊体に比べて宗教としては劣勢とならざるを得なかったのではないでしょうか。そこで考えられていくのが久遠仏思想であったのではないのかと思うわけです。
しかし、この時点では、法身崇拝と言った仏陀から離れて直接、法だけを崇拝する動向はまだ起きていなかったのではないでしょうか。ですから、当時の大日・法身と言った思考は仏教徒にあったとは考えがたいわけです。つまり、バイロチャーナは不死の尊体として仏教に混淆する、すなわち当初は報身として取り入れられていったのではないでしょうか。
天台の時代、大日思想という形はなく、あくまでバイロチャーナ、すなわち毘盧遮那仏という認識であったと思うわけです。つまり、毘盧遮那・阿弥陀・釈尊の三身、そして即一説が天台思想であって、大日ではない、しかし、その後、真言密教の成立に伴って、毘盧遮那が大日如来と解釈されるにいたる歴史的な推移があるのであろうと思うわけです。
重要な点は、天台思想では毘盧遮那は、あくまで釈尊と理解されるのに、真言密教としての展開では「大日如来という新たな仏」として理解されていくという点ではないでしょうか。そして、天台が言う毘盧遮那と、真言で言う毘盧遮那は、まったく異なる思想であるという点です。
ここでさらに重要な点は、法身思想は毘盧遮那思想があった、大日思想があったから、生じたと言うより、それら混淆とはまったく別の思想系譜が仏教内でさらに混淆したものではないのかという点です。はたして法身思想が仏教内部から生じたものであるのか、あるいは外部からの混淆であるのか、私は決し得ません。けれど、少なくとも釈尊一仏を崇拝してきた仏教とは従前の有様とは明らかに異なった思想であると思うのです。
また、シャキャムニ崇拝から舎利崇拝、仏塔崇拝、経典崇拝という一連の系譜は仏を応身と見なすか、法身と見なすかという違いはあっても、同一のカテゴライズは可能であると思います。しかし、法身を拝するとなると、すでにこの時点でシャキャムニ崇拝というカテゴライズははみ出さざるを得ないことになるように思えるわけです。
未整理のことを書いていますが、以上のような歴史性から、真言密教という新たな仏教?と顕教と称される仏教の“混淆”を考えていかないと正しい認識には至れないと思うわけです。
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