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日蓮聖人と真言密教
1
:
管理者
:2002/03/08(金) 17:06
ここから、このスレッドの過去レスを見る事が出来ます。
http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/keijiban/shingon.htm
大石寺問題提起スレッドにおいて、スレッドテーマのご提案がありましたので立ち上げます。なお、提案文は以下の通り。該当レス、転載致します。
名前: アネモネ 投稿日: 2002/02/05(火) 08:10
日蓮聖人と真言密教の関係、拝見していてとても興味深いです。
これだけで、新しくスレッドを立ててはどうでしょうか。
2
:
岡田克彦</b><font color=#FF0000>(Gay75MZI)</font><b>
:2002/06/02(日) 18:16
2チャンその他で私の名前にていろいろなことを書き込んでいる人たち
がいるようでございますが、私は、2チャンその他の掲示板にはレヴェルの低い、
しかしコンプレックスだけは強い連中がタムロしていることがわかりましたので、
一切興味がなくなりました。このゴールデンウィーク以降は、
何も書いておりません。これからも永久に書き込みませんので、
全て2チャンネラーの偽者の仕業とお考え下さい。(岡田克彦)
私、岡田克彦の音楽ホームページ「K.OKADAワールド」URL;
http://www.geocities.co.jp/MusicHall/5933/
3
:
いちりん
:2002/06/26(水) 09:52
天台教学、日蓮教学においては、仏において優劣をつけ、この仏はすばらしくて、あの仏は程度が低いというようなことをいいます。
やれ、阿弥陀如来は、報身仏だ、阿含経に説かれる釈迦は、応身仏だ。『法華経』の釈迦こそが、法報応の三身即一身の如来であり、それが最高であるとかいいます。
さらに、日蓮系の富士門流になると、いやじつは、日蓮こそが究極の本仏であって、それが最高。あとの仏は、すべて分身仏みたいなもので、程度が低いのだというような言い方をします。
『法華経』の結経である『観普賢菩薩行法経』には、次のようなことばがあります。
《釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名づけたてまつる》
──釈迦仏を毘盧遮那如来と名づける──
毘盧遮那遍一切処とは、毘盧遮那仏であり、バイローチャナ・ブッダを「音訳」したものです。
すなわち、法身仏のことです。
毘盧遮那仏は、『華厳経』の教主で、この毘盧遮那仏を中心に法が説かれます。実際には、毘盧遮那仏は説法をしないで、普賢菩薩などの菩薩たちが法を説きますが。
また、密教においては、教主は大日如来です。大日如来とは、バイローチャナ・ブッダ、毘盧遮那仏を「意訳」したものです。
すなわち、『法華経』に説かれている久遠実成の釈迦仏と、華厳経で説かれる毘盧遮那仏と、密教で説かれる大日如来は、おんなじものである。私は、そのようにとらえています。
さらにいえば、すべての仏は、「一相一味」である。
優劣、勝劣、あれだこれだというような差別や区別をこえたところの存在であると。
道元は、悟りを開いたものは、等しく釈迦牟尼仏になるのだといいました。
4
:
犀角独歩
:2002/06/26(水) 13:05
> 3
たしかに『観普賢菩薩行法経』に「釋迦牟尼名毘盧遮那遍一切處」の一節が見られます。なんだか、私はこのような所説があるからこそ、『観普賢菩薩行法経』は法華経の結経と“された”のではないかと考えるわけです。毘盧遮那による仏概念の統括という一連の流れが大乗仏教運動と言われる思想系譜の底流を為していたという見方です。
各所別々に現れた仏概念を整理しようとする試みが三身論で、それを統括しようとしたのが三身即一身という相即論ではないのかと思うのです。
仏と言えば釈尊に決まっていますが、そこに新しい大乗仏教の仏として毘盧遮那仏が創作され、さらに恩寵説に基づく阿弥陀如来が現れてきた。前者は、たぶんイランのミトラ神(太陽神)の混淆で、後者はキリスト教でいう神の混淆であると言われますね。さらに、この頃、やはり、イランに起源を見る救世主思想が仏教に混淆し菩薩思想が生じるのでしょう。
救世主はミシュランですが、この語源はミトラ、つまり、毘盧遮那仏の原型であるイランの太陽信仰と起源を同じくしているわけです。ミトラは仏教ではマイトレーヤとして取り込まれていくわけですね。すなわち、弥勒菩薩です。菩薩思想の起源は弥勒信仰に始まるわけです。
以上のような思想交流と混淆が三身論と菩薩思想を生み出していったのだけれど、結局、それは釈尊一仏に戻そうとしたのが法華経であるし、観普賢菩薩行法経であったのでしょう。そして、その整理は菩薩思想の整理も含んでいたのではないでしょうか。
日蓮の後半生は霊山浄土思想にあったと指摘したのは、たしか田村芳朗師でしたが、この浄土思想は極楽浄土を基底にするものなのでしょうね。
私は法華経と阿弥陀経というのは兄弟関係にある経典であると考えています。
虚空会における寿量釈尊、同じく虚空会で語られる極楽と阿弥陀如来、実に、類型にあります。
特に注目するのは法華経安楽行品の「安楽」という一語です。これは、魏代には、スカバティーの訳語として使われていた語でした。
○スカバティー(極楽浄土)の訳語の変遷
年代・・・・・訳語・・・・・・・・・・・・・・出典
179・・・・・・須摩提・・・・・・・・・・『般舟三昧経』
147-186・・須摩提、須阿提・・・・漢訳
223-253・・須摩題・・・・・・・・・・・・呉訳
223-253・・須阿摩提・・・・・・・・『慧印三昧経』
252・・・・・・“安楽”・・・・・・・・・・魏訳
269・・・・・・須摩提・・・・・・・・・・『方仏泥[(江-エ)+亘]経』
280-312・・須訶摩提・・・・・・・・『菩薩受斎経』
313-316・・須訶摩提・・・・・・・・『三曼陀[風*友]陀羅菩薩経』
402・・・・・・極楽・・・・・・・・・・・・『阿弥陀経』
420-479・・極楽・・・・・・・・・・・・『如来智印経』
708-713・・極楽・・・・・・・・・・・・・・唐訳
1001・・・・・極楽・・・・・・・・・・・・・・宋訳
(岩本裕著『極楽と地獄』112頁の記述に基づいて整理)
3世紀頃、極楽を安楽と言っていたわけです。
安楽行品の安楽はスカバティを訳したものではないと思いますが、羅什は何らかの意図を含ませていたのでしょう。
ここまでくると日蓮聖人の祖意では留まらず、さらに天台より数世紀戻って文化交流論から考えないと答えは出ないことになるでしょうね。
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