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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

93ガンコ:2003/05/03(土) 19:08

どうもどうも、大変お返事が遅くなりました。

あなたは早打ちでいらっしゃるし、おまけに昭和定本をお使いになられるなんて、もはや、わたくしがお相手じゃ不足かと思いますが、よろしくお付き合い願います。

わかりやすい言い方をすれば、弘安二年は到達点なのか、それとも通過点なのか、ということだと思うのです。
すでに先読みなさっていらっしゃいますが、仰せのとおり、わたくしは大曼荼羅信仰者であり、ことに弘安二年十月十二日の御本尊を本懐中の本懐と教育されてきたのでした。
ですから、当然そこに帰結するような論の運びをするにちがいない、と皆さん見ていらっしゃるだろうことは承知しています。
しかし、そんなに欲張るつもりはないのです。

今わたくしが興味を持っていることは、聖人御難事の「二十七年」が到達点を意味するのか、たんなる通過点なのかということです。
これはそれぞれの言語感覚によってちがって読めてしまうものなのかもしれませんが、わたくしには到達点を仰せられたものと読めます。
もちろん、“たとえおまえが素直にそう読めたとしても、それは洗脳されているからだ”と言いたい方もいらっしゃるにちがいありません。
ただ、逆のことも言えるのではないかと思うのです。
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、・・・」
つまり、素直に読んでしまうと条々事に符合してしまうから、これでは他門流は面白くないでしょうから・・・なんて書いていると喧嘩売ってるように思われそうですが、これがわたくしの正直な考えです。

>蓮祖の場合も何れかの時点ではなく、人生という線の中で考えています。

おそらくこれが世間一般の妥当な評価方法なのだと思います。たとえばここにベストセラー作家がいるとして、よく聞くセリフですが「私はこれを書くために生まれてきた」なんて言ったりします。しかし作家の正当な評価というのは、おおむね没後に定まるわけです。つまり、研究者が作家の全作品を詳細に検討していってから定まるのです。
つまり、作家本人がいくら作品を自画自賛しても本当の評価は時間が経ってみないとわからないという面があると思います。
であれば、日蓮大聖人の御一代を俯瞰して、出世の本懐は満たされている、と拝する方法もあることでしょう。

>「本門の教主釈尊」を本尊としたのですから、「一閻浮提第一の本尊」であることは間違いないのじゃありませんか。

ええ、そうですね。いわばここが本宗にとってはネックになっているところかと思います。
わたくしにいい考えがあるわけではありませんが、おっしゃるとおりに本門の教主釈尊が一閻浮提第一の本尊だとして、それは建立されたのかどうかです。
大聖人の時代には建立されなかったとすると、おそらく永遠に顕れないでしょう。
つまり、仏像も仏画も不可能であろうと思うのです。
消去法でいけば御文字の御本尊しかありえないのではないか、と考えています。


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