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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
8
:
独歩
:2002/04/19(金) 12:12
―7からつづく―
垂迹の当体への置換は6で記しましたが、もう少し補足すれば
三重秘伝抄では以下のように置換されます。
本地自受用報身の垂迹、上行菩薩の再誕、本門の大師日蓮等云云。
本地は自受用身、垂迹は上行菩薩、顕本は日蓮なり。
つまり、本来、日蓮に係る垂迹を、ここでは「顕本」に置換して本仏義を肯定するわけです。しかしながら、これは
当流行事抄の
子丑の時は末法蓮祖垂迹の凡身の死の終りなり、故に頚を刎ねらると云うなり。寅の刻みは即ち是れ久遠元初の名字本仏の生の始め
といい、つまり、竜口逢難が垂迹・日蓮の死であり、久遠元初の名字本仏の生の始めであると意義付けられていきます。しかし、三重秘伝抄で日蓮は顕“本”であると言い換えておきながら、そのあとで、やはり日蓮は垂迹で逢難で“本”仏というのは論が踊っていると感じます。
これらの点は改めて六巻抄のスレッドで考えたいと思いますが、富士門では元来、日蓮迹仏論が先行し、それを寛師が日蓮本仏論に作り変えた概要は理解されるところであろうかと存じます。
ただし、この“書き換え”をすべて寛師一人の独創的なアイディアとするべきかは一考を要する点はあろうかと思います。
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