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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

672顕正居士:2004/06/06(日) 17:17
三吉さん。
>「在世の本門」は、「久種覚知」に終わらず、始まります。
これはどういう意味でありましょうか?
>「末法之初め」は、「久種覚知」の「但題目」だけで完成と日蓮さんは言われていると
>私は読みます。
「しらず大通結縁の第三類の在世をもれたるか、久遠五百の退転して今に来るか」(『開目鈔』)
という言葉はありますが。「末法之初」の機は「本未有善」であり、新たに「聞法下種」を行う
時だというのは日蓮宗の諸派に共通の教義であって、だから「末法の衆生は釈迦仏法に結縁なし」
という表現も誤っているわけではないと考えます。

独歩さん。
>『法華経』のなかで、実際に「衆生が解脱する」ことを伝える箇所はあるのでしょうか。
「授記」は未来のことで「即身成仏」ではないという批判を真言宗から受けますから、日本天台
では竜女成仏を「現証」とします。現在に「八相成道」したわけですから。
「八歳の竜女、頓に正覚の台に坐す」(安然『即身成仏義私記』)
「第五の巻は一経第一の肝心なり竜女が即身成仏あきらかなり」(日蓮『上野殿御返事』)
しかし「八相成道」は初住から可能ですから、「竜女分極」(初住か妙覚か)の論があります。
また「即身成仏」は「一生成仏」(一生入妙覚)とはちがう概念です。
「問ふ、的(まさ)に就ち何の位を即身成仏とする耶。答ふ、初後あらば是れ止観に背く。初後は
皆是れ仏也。但だ理即は理仏にして成不を論ぜず。名字已り去(このかた)皆為(これ)即身成仏
と名づくることを得」(安然『即身成仏義私記』)
なぜ『観心本尊抄』には「本門に至って等妙に登らしむ」というのか、という疑問はおこります。
堅樹日寛師はこういう箇所を見逃しませんから
「問ふ、今日の本門に妙覚の益なし、何ぞ等妙といふや。答ふ、文上の所談は実に所問の如し、
若し文底の意は皆名字妙覚位に至るが故なり」(『観心本尊抄文段』)
と注釈しています。
*竜女分極 『天台宗二百題』にあります。この本は四明尊者の中国正統天台に基づく議論です。
*天台宗と真言宗では「即身成仏」の語の意味合いが違うことについては次の記事が役立ちます。
http://www2.tky.3web.ne.jp/~kuuki/hp/3hossin/ronbun/10jikidou.html
*五大院安然の『即身成仏義私記』は次のサイトからダウンロードできます。
http://member.nifty.ne.jp/akirakira/study/lib.htm


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