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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
669
:
犀角独歩
:2004/06/06(日) 12:05
> 661
(1)については顕正居士さんがお答えになり、さらに三吉がお考えをお示しなので、屋上屋を重ねないことにします。
(2)については該当文書の前文から読めば「在世の本門と末法の初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此は種なり。彼は一品二半、此は但題目の五字」で「在世の本門=脱、末法の初め=種」であるという以上、「法華経が脱」であることになります。(経典<一品二半<五字)
しかし、これは釈迦仏法が脱益仏法で日蓮仏法が下種仏法であるということにはなりません。(五重相対はそもそも『開目抄』の教説です。『本尊抄』を持ってきて継ぐこと自体おかしなことです。また蓮師が言う五重相対は内外・大小・権実・権迹・本迹と見なされます)
本門寿量品の教学的な位置は釈尊が自らの久遠成道を示し、以後結縁衆の脱益を期するという脈絡ですから、当たり前のこととして本門は「脱」となるのでしょう。
それに比し、蓮師の末法の初めの位置づけは妙法蓮華経の五字を付属された上行菩薩を代表する地湧菩薩が滅後悪世の末法に弘法するというのですから「種」に違いありません。
しかしこれは、敢えて書けば、「脱勝種劣」というべき関係にあります。
つまり、経典より五字が勝れるというより、五百塵点已降結縁した衆生の法華経と、いま釈尊の命を受けて菩薩が衆生を済度するのに付属された五字との相違であって、倶に元来、その本法を所持するのは釈尊なのであってこの点は動きません。上行菩薩はその尊い釈尊から付属を受けて、五字を流宣するわけですから、上行菩薩が釈尊に勝るわけもなく、また、五字が経典に勝ることにもなりません。まして、上行を日蓮と見なし、その日蓮が釈尊より勝るなど、どうすれば、そんな考えが生じるのか、この倒錯ぶりには呆れるより他ありません。蓮師の嘆きを籍りれば「下克上」というほかないでしょう。
ただ、余計なことを記せば、蓮師は「末法の初め」と記すのであって、これは『大集経』を典拠とするのでしょう。つまり仏滅2000年から2500年を指します。蓮師の気分はその末法の初めに相当たるということでしょう。では、今はどうなるのか。已来700年を経てその初めから大きくはみ出しています。しかし、以降の時代が「種」に当たる教学を顕正会といわず、石山系はなんら示していないように見えます。(なお、蓮師が採用した仏滅年代は500年のずれがあり、鎌倉時代はまだ像法いうのが今の学問的通論です(参)高木豊師)
(3)「中古天台のほうがこちらを真似た」の「こちら」とは「大石寺」ということでしょうか。正確に言えば、「中古天台本覚思想恵心流口伝法門を」ということになるでしょう。では、この教学運動の基となったのはどこかといえば、言わずと知れた仙波檀林です。石山上古、歴代諸師のほとんどは、この本拠地、仙波檀林に学僧であったことを挙げれば、答えになるでしょう。
また、やや間口を広げ、所謂「本覚思想」はその濫觴を空海に見る(田村芳朗師)というのが学問的な常識です。平安期以来の教学が、なんで鎌倉時代の日蓮の真似といえるのでしょうか。「鎌倉時代の文化は、平成の科学による」というようなものでしょう。有り得ないことです。なお、日蓮自体、比叡山に学んでいるわけです。そこで日蓮は1歳年長の俊範からの相承系譜に属しています。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/honkakukeihu.html
> 愚鈍凡夫さん、お久しぶりです。
> 一刀両断さん、失礼など、何もありませんよ(笑)
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