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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

668三吉:2004/06/06(日) 11:57
私の読みを参考に書いておきます。(混乱するかもだろうけど)

「脱」と言うのは、「解脱」のことです。
「種」とは「下種」のことです。
他に「熟」(調熟)というのもあり、これは教え成熟させることです。
この、「種」「熟」「脱」は元々、天台用語です。
「下種」とは衆生の心のうちに仏教の種を撒くことです。これが
仏法に結びつく最初の段階になります。
「調熟」の次段階で教え成熟させられ、
「解脱」の最終段階で悟るわけです。

上記を踏まえ、日蓮さんは、語られておられると思います。

「釈尊晩年最後の八年で、本門を説かれた。
その核心は本門寿量品を中心とする一品二半で、これを直接
釈尊から聞いたものはすぐに「解脱」したのであるが、
「解脱」に至るまでに前世での長い教導期間が実はあるのです。
まず久遠の過去世に仏法を釈尊から聞いておったのです。
更に、大通仏のもと釈尊が16王子時代にも教えられ、
今生においては釈尊の華厳→阿含→方等→法華迹門の教えを受け
成熟させられ、漸く本門が届く機と時が熟し、純円となり
本門が説かれ「解脱」したわけです。」
これが「但し彼は脱」という意味です。

477犀角独歩 さん「つまり、久遠に脱益した仏が一念三千を衆生に下種した。
脱とは仏、種一念三千、下した先は結縁衆。」と言われていますが、
私にはそうは読めない。
「脱」は、仏ではなく、あくまで聞いたが衆生が解脱することです。

663 名前: 顕正居士さん「「在世の本門」は「久種」(久遠の下種)を覚知せしめる時、
「末法之初め」は新たに仏種を植える時であるから、「一品二半」と「但題目」の関係
が逆になる。」とのことですが、
「在世の本門」は、「久種覚知」に終わらず、始まります。ながぁぁぁぁい時間をかけて
調熟させられる道程に正当性があるのです。(一往は天台正統派解釈。再往は日蓮解釈)
なので「在世の本門」は「久種」覚知に始まり、前世・今生の長い調熟期間を経て、
漸く本門教示の得脱に至るのだが、「末法之初め」は、「久種覚知」の「但題目」だけで
完成と日蓮さんは言われていると私は読みます。
共に純円とは、飽くまで法華本門が説かれる「機」と「時」が熟していると言う
意味に過ぎません。共に法華本門が説かれるが在世の本門は長い準備期間を慎重に経た。
末法である現代は、いきなし準備期間なく、本門が示されるという差がある、と。
つまり「種」は今初めてではなく、「永遠の昔」でしょう。

現代は、「永遠の昔に釈尊の説法を聞いたことがあった」と思い出す時代であり、
鍵は「但題目の五字」だよということではないでしょうか。

661 ロッドさん
いずれにしましても「釈迦が脱」を「釈尊の時代は終わったのだ」とは日蓮さんから
は直接読み取れず、日蓮正宗系統の解釈にすぎないのでは・・・。

皆様言われていますが大事なのは、正宗系統の解釈であれ、その批判者あるいは、
中立的な読みであれ、他人様の読みを鵜呑みにされず、自分の目でご遺文を読まれて、
ご確認されてください。自分で調べ、考え、判断し、決断する。これができていれば
たとえ何かに騙されても、間違っていても、悔いなど起こりません。
少なくともそのときの自分に可能な選択をしたのですからね。


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