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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
663
:
顕正居士
:2004/06/05(土) 13:11
「但し彼は脱、此れは種也。彼は一品二半、此れは但題目の五字也」(『観心本尊抄』)。
この文は「一品二半」が「在世脱益の機」の為に説かれ、対して「題目の五字」が「末法下種の機」
の為に神力品において結要付属されたと述べているわけではありません。
「寿量品の一品二半は始めより終りに至るまで正しく滅後の衆生の為なり。滅後之中には末法今時の
日蓮等が為也」(『法華取要抄』)。
この文は「一品二半」のみでなく、本門十四品の全部と迹門十四品の正宗の八品が「末法の始め」を
正機として説かれたのであると述べた文章の最後にあります。
「迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩・凡夫を以て傍と為す。再往
之を勘うれば凡夫、正像末を以て正と為す。正像末の三時之中にも末法の始めを以て正が中の正と
為す。(略)迹門是の如し。本門を以て之を論ずれば、一向に末法之初めを以て正機と為す。
所謂、一往之を見る時は久種を以て下種と為し、大通・前四味・迹門を熟と為して、本門に至って
等妙に登らしむ。再往之を見れば迹門には似ず。本門は序正流通倶に末法之始めを以て詮と為す。
在世の本門と末法之初めは一同に純円なり。但し彼は脱、此れは種也。彼は一品二半、此れは但題目
の五字也」(『観心本尊抄』)。
http://www.sattva.jp/data/ibun/g-118.html
「但し彼は脱、此れは種也」の「彼」とは「在世の本門」であり、「此」とは「末法之初め」です。
この両者は「一同に純円」であるが、「在世の本門」は「久種」(久遠の下種)を覚知せしめる時、
「末法之初め」は新たに仏種を植える時であるから、「一品二半」と「但題目」の関係が逆になる。
つまり 在世 「一品二半」→「但題目」:末法の初め 「但題目」→「一品二半」になります。
日蓮聖人の著述の意図では、「彼は脱、此は種」とは「教機時国序」の「機」に「勝劣」を分ける
意味ではない(「一同に純円」)、まして「教」(法体)に「勝劣」を分ける意味ではない、相違
はただ『時』にあり、「在世の本門」と「末法之初め」では「一品二半」と「但題目」の関係が逆
になると述べられたのであると考えます。
「正法像法には此の法門をひろめず余経を失わじがためなり、今末法に入りぬれば余経も法華経も
せんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」(『上野殿御返事』)。
http://www4.justnet.ne.jp/~bekkann/goso1545.html
は「西方願生」についての上野殿の疑問、おそらく、「法華経の経文にしたがうならば臨終の際に
阿弥陀仏を頼むべきではないのか」に答えた表現でありましょう。
天台大師以来、天台宗の聖賢は臨終には「西方願生」を頼んだ。これを「天台浄土教」といいます。
「日出でぬればとほしびせんなし雨のふるに露なにのせんかあるべき」。これも『時』の相違であり、
「西方願生」については「余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし」と述べられたので
ありましょう。地名さんがおっしゃるように、単にその文がある前後の文章を自分で読むことにより
疑団の多くが難なく解決することがあるだろうと思います。
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