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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
61
:
今里祐二
:2003/01/30(木) 04:02
富士門流の教義とは日蓮大聖人の「言」に拠って成り立っているのか?
『聖人御難事』にはこのようにあります。
『仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に、出世の本懐を遂げ給ふ。其中の大難申す計りなし。先先に申すがごとし。余は二十七年なり。其の間の大難は各各かつしろしめせり。』
『出世の本懐』がどのような事柄を指すのかという議論はさておいて、弘安二年十月頃、大聖人様は、釈尊が法華経を説いたことに匹敵するような、大聖人様御自身が心の底から満足できるような何事かをされた、という事は疑い様の無い事実だと思います。
僕は、富士門流の教義とは、この大聖人様の『出世の本懐』を拠り所にして成り立っている教義だと考えますが、いかがなものでしょうか?
御書を文底読みしたり、例え真筆であっても信仰に対して益が無いと判断されるものは削除するという態度に、そのことが如実に表れていると思います。
有師・寛師・そして現代と、大聖人様の仏としての格付けはドンドン上がっていき、解釈という意味での変遷(進歩?)はありますが、『出世の本懐』を拠り所としている点については変節は無い様に思います。
浅学ゆえ、上記のような考え方で良いのかどうか解りません。どなたか御教示下さい。
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