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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について
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:
犀角独歩
:2003/01/29(水) 13:41
最近また、日蓮本仏論が議論のなかで見え隠れしておりますので、この点に一言だけ、申し上げます。
私は現行いわれる本仏論は本仏論と言うより、原初仏論であろうかと思います。
岩本師は以下のような非常に興味深い分析をしています。
「『法華経の立場』 大乗仏教に至って原始仏教の無神論的性格は破棄され、ブッダが神格化され、、歴史上のブッダの個性は消滅していったのであり、その完成された形に於いて、世界は「独立して存在する」(スヴァヤム=ブー)本源的な仏であるアーディ=ブッダ(原初仏)から現出するとされた。われわれの『法華経』は嚮に述べたように、大乗仏教の新しい倫理を説き、また仏をスヴァヤム=ブー Svayambhu (自然に生じた者)として讃歎しながらも、未だシャーキャ=ムニ(釈迦牟尼仏)が第一の地位を占めており、しかも幾千万億の仏や求法者(菩薩)たちに取囲まれているのであって、ここでは歴史的なブッダの姿は未だ完全に消滅していないことが知られる。また、その哲学説に於いても、ブッダが説いた縁起説を超克して、「空」の思想によって包摂しようとしているが、なお未だ一元的な観念論に到達していないのである」(『法華経・上』岩波文庫 P371)
以上の岩本師の言で法華経が到達しえなかった一元的観念論(観念論という表現の適不をいまは論及しませんが)における大乗仏教が構築した仏はまさに「原初仏」であったのであろうと思われます。
石山に添って記せば、有師における日蓮本尊論は凡夫、未断惑を、師・本尊とする類の日蓮崇拝であったのが、寛師に至っては釈尊再誕日蓮となります。この二つの日蓮崇拝の在り方は明らかに異なります。また、これらと伝眼師の言とされる「日蓮本仏」とはまた趣を異にしています。しかしそれでも劣を簡んで勝を立てる勝劣相対に基づく、仏の選定であるのでしょう。つまり、これは真偽未決の『本尊問答抄』「本尊とは勝れたるを用ふべし」という勝劣論の延長にあるのでしょう。
つまり、、通じて富士周辺で論じられた本仏観はいわゆる相対論なのであって、迹仏を簡び本仏、迹門仏を簡び本(門)仏、垂迹仏を簡び本(地)仏、権仏を簡び本仏という相対観で本仏を選んでいます。
ところが学会が生命論を言い出し、その影響を受けた石山教学はその相対観として本仏論から一歩進み、むしろ、原初仏思想になっている点を看過すべきではないと私は考えます。このような仏観はしかし、法華経というより、それ以降の大乗仏教の要素が加味されているのであろうと思います。
妙法蓮華経を宇宙真理と見做し、それを無始已来体現するという類の仏観は、本仏というより、原初仏というほうが相応しいと思えます。
なお、原初は当初(そのかみ)より、さらに原初的であると私は思います。
『三世諸仏総勘文教相廃立』に
釈迦如来五百塵点劫の当初(そのかみ)、凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき
という「当初」より、真跡遺文にただの一度も表れない「元初」に「原初」は近いのでしょう。総勘文抄では即座開悟の有限をいうのに対して、日蓮を「無始無終の仏」とする学会・影響下の石山教学は超越的であり、ここでは相対観は既になく、一元的な原初仏となっています。
原初仏は、元初仏と換言が可能なのかも知れません。いずれにしても、現在の日蓮本仏はすでに寛師の本仏論とは違うものになっている点は一考を要することを指摘しておきたいと思います。
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