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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

57川蝉:2002/05/06(月) 09:42
独歩さんさんが53番に、

>重要な点は本仏は元々久遠釈尊を指し、そう言っていた天台を今
>度は本仏と言い、その釈尊・天台に従っていた日蓮を本仏という
>に至るという点です。
>このようなことが正しい考え方であるとは、私には思えません。

と云われていましたが、その通りのようですね。
「摩訶止観見聞添註」を見ると、
「粟田口心賀の義に云はく、玄義文句は在世の教味を假りて、一代の教相を判ず。故に法華の能釈なり。
止観は是れ大師の己心所行の法門にして、更に在世の教味を借らず。何ぞ法華の能釈と云うべきや。

況や身・土・説・機に就いて之を別つなり。則ち法華能説の教主は釈尊応身仏果、所居の土は同居霊山、所被の機縁は一代声聞植迂回道の類、色心二重移転を正機と為す、所説の法門は本迹二段の妙法なり。
止観能説の教主は自受用報身如来、所居の土は皆常寂光妙土、所説の法門は天真独朗の法体、本迹未分の内証、所被の機は直入円頓にして、本迹未分の頓機なり。
身・土・説・機、既に格別なり。いずくんぞ能釈ならんや。

止に云はく(一の一の二十五左)此の止観は天台智者、己心中所行の法門を説きたまう。と、己心中所行とは依経立行法に非らざるなり、法華の能釈に非ること験かなり。
此の旨を著さば、玄義文句には法華の言を安く。止観は摩訶と題して法華と書かず。
また玄義文句は法華の文を引く。或いは云はく此の経に云はく、或いは経に云はくと云う。止観は法華と云はくと、此の経を引かざるなり。此の如き等は、寧ろ己心所行止観は能釈にあらざる事を顕すに非らずや。」(佛教全書・摩訶止観見聞添註18頁)

「止観序(一の一の五右)に智者、大随等と云う。弘決(一の一の五右)に之を受けて云はく、智者の二字は即ち是れ教主、と。智者の二字、仏徳と全同なり、即ち此を以て三身中自受用身と為し、止観教主と云うなり。」
(佛教全書・摩訶止観見聞添註22頁)
等と論じています。

上掲の文のおおよその意味は、

「玄義・文句は法華経の解釈書であるが、止観は大師の己心所行の法門であって、法華経等の教説に基づいたものではない。故に法華経の解釈書ではない。
法華経と止観とは、
説き主(法華は応身釈尊・止観は自受用報身如来)、
説かれた場所(法華は同居の霊山・止観は常寂光妙土)、
説かれた法門(法華は本迹二段の法華経・止観は天真独朗の法体、       本迹未分の内証)、
聴衆の機根(法華は色心二重移転を正機・止観は本迹未分の頓機)  <色心二重移転を正機とは、種・熟と調熟された機根の意か。   川蝉注>
が異なっている。ゆえに止観は法華の解説書ではない。

(天台)智者の二字は教主という意味である。故に己心所行の法門を説いた天台大師の事を自受用身と為し、止観教主と云うのである。」

との趣旨の文です。
止観は法華経に依って立てた行法(法門)ではなく天台大師己心所行の法門であるから、大師は止観の教主であり、自受用身なのであると云う主張のようですね。

創価学会・佛教哲学大辞典を見ると、
「釈尊は色相荘厳の仏身であり、・・所説の本迹二門は迹中に説く理上の法相」(343頁中段)

「インド応誕の釈尊は久遠元初の自受用身に対すれば応仏昇進の自受用身」(同343頁上段)

「日蓮大聖人は・・久遠元初の自受用身の再誕であられ、・・(対象は)末法の独一本門の直機」(同280頁下段)
等と有って、
釈尊は応仏昇進、日蓮大聖人は久遠元初の自受用身の再誕。
釈尊の所説は本迹二門の法華経、日蓮大聖人所説は独一本門。
釈尊の教化対象は種熟を経て調熟された脱益の機、日蓮大聖人教化の対象は末法の独一本門の直機。
と云う違いが有るとしていることが分かります。

日蓮大聖人は、釈迦が説かなかった妙法五字を説いた故に本仏であると云う論理と、「摩訶止観見聞」に見える、止観は法華経に依っていないと云う立場や、法華経には依らずに己心所行の法門を説いた天台を自受用身と見る論理と極めて酷似していますね。

「止観は法華より勝れている」と云う思想や「観心の釈の時には本迹を捨てる」と云う思想は、宗祖が「立正観抄」において厳しく否定されています。(立正観抄は身延三世日進の写本があるので、確実な御書といえるでしょう)


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