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『日蓮大聖人が御本仏である』という教義について

56独歩:2002/05/04(土) 14:02

○長遠永異故用比之

という一節は実に気になります。先に一般的な読み方を記したのですが、ちょっと、考えているところを、ここを備忘録として記させてください。

まず「長遠永異」の長・永は通常であれば対句に読めます。“長”は丈などの長短がながい様、それに対して、“永”は時間がながく遠いこと。いずれも“ながい”ことを意味して使われていますが、同じ字の重複を避けるために長・永が使い分けられているように見えます。(同じ意味をいくつ感じで表現できるかでその人の素養が計られる習いがあったわけです)

長遠は前文から如来の寿命が長遠であることが本門の正意であると知れます。永異(ようい)は永く異なる意で天台文献では多く散見できる熟語です。(初期天台61文献中78)
ここの文意は、さらに前段から諸経(権経)とその正意である如来寿長遠が永く異なっているという意味であろうと存じます。

以上を前提とするとき、

「故用比之」の“用”が気になります。そのために私は訓読で、あえて用比と残してきました。もちいる、はたらくと読むことが一般化されていますが、果たしてこれでよいのか? そのような疑問が私にはあるわけです。

ここの文脈は明らかに、権経:実経=迹門(用)・本門(体)となっているわけです。
つまり、長遠(実経)永異(権経)となっているわけです。
となると、故のあとの「用比之」の“用”は体用の用と読むほうが自然ではないのかと思えるわけです。つまり、「用を之に比す」。すなわち、権経と永く異なるので、(本門実相体の)用と之(権経)を比べるという意味ではないのかと思うわけです。

そして、続く段では、諸経(権)に対すれば実は本迹束ねて比べられるから、同辺に論ずる。けれど、さらに精しく言えば、長寿は、ただ体の用を証じるばかりで、実相の体を未だにまのあたりに証じてはないということとつながると思えるわけです。

ややこしいことを書いていますが、要するに「用比之」は「用を之に比す」ではないのかというのが言いたいところです。


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